さようなら、ブレービー。

それゆけネッピー!―プロ野球マスコットにかけたゆめ (おはなしノンフィクション)

それゆけネッピー!―プロ野球マスコットにかけたゆめ (おはなしノンフィクション)

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また訃報、である。なんかもう、いやや。
かつての阪急ブレーブスのマスコット「ブレービー」、また後の
オリックスブルーウェーブの「ネッピー」を演じた人が帰らぬ人となった。
その人の名は島野修。先日お亡くなりになっていたことが昨日わかったとか。
スタジアムに妙を添えるマスコットは、今では当たり前の風景である。
しかし島野さんの決断がなければ、それはありえなかったかもしれない。
ご存知の方も多いと思うが、島野さんはかつてプロ野球選手であった。
しかもただのプロ野球選手ではない。あのV9時代の巨人のドラフト1位だった。
その当時のプレッシャーは、今からは想像できないほどだったに違いない。
また島野さんが指名された1968年ドラフトの他の1位指名選手を見てみると。
(ここはパンチョさん口調でいきたいところ)
阪神田淵幸一
中日・星野仙一
広島・山本浩二
大洋・野村収
阪急・山田久志
東京・有藤道世
西鉄東尾修
いずれも球史に名を残す面々である。おそらくは「史上最高のドラフト」であろう。
名門のプレッシャー。他からのやっかみ。星野氏の「島野?星野の間違いだろう」
というセリフはあまりに有名なところだ。そして周りはどんどん活躍していく。焦り。
ほどなくして、巨人では一軍登板は少なく、いいところなく阪急へ移籍。
阪急では一軍に上がることなく、そのまま退団。球史からその名を消す、はずだった。
退団後、喫茶店を経営していた島野さんに、阪急球団から声がかかる。
「マスコットをやらないか」
大巨人のドラフト1位が、ぬいぐるみ… 
胸中いかばかりか。しかもマスコットが日本ではまだまだ珍しい時代だ。
断るつもりで球団事務所に出かけた島野さんだったが、事務所でビデオを見せられる。
大リーグのマスコットのビデオだ。そこに映っていたのは「野球を盛り上げるプロ」だった。
考えを改めた島野さんは、大リーグのマスコットを徹底研究。また劇団の指導も受け、
プロのエンターテナーとしての階段を一歩、また一歩昇ってゆく。
しかし、失礼ながら。昔のガラガラの、オッサンの野次が飛び交う西宮球場では
やりにくかったはずだ。心無い野次もあったろう。何を言っても笑っているぬいぐるみは
格好の「エジキ」である。また、運命の悪戯か、阪急には、前述の山田・加藤・福本と、
「同期」の名選手が多かった。島野さんはぬいぐるみの奥からそれを、どう見つめていたのか。
妬み、嫉み、惨めさ。やさぐれかかったところ、島野さんを救ったひとりの少年がいた。
島野さんが、食事をしていると、隣の親子連れの会話が聞こえてきた。
冒頭の児童書によると、こうらしい。
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「お父さん、きょうの野球、おもしろかったね。」
「でも、ぼくは、ブレービーが、いちばんおもしろかったよ。あしたも、ブレービーをみにつれてってね。」
「よし、まかせとけ。あしたも、あさっても、ブレービーをみにこような。」
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隣の人が、ブレービーその人と知らず少年は明るく語る。島野さんは、涙を隠すのに必死だったろう。
おそらく舞台は西宮か宝塚かどっかの飲み屋だろうか食堂だろうか。自分は阪急ファンではなかったが、
何故か少年に昔の自分を重ね合わせてしまう。なんと素敵な場面であろうか。
そこから島野さんは変わった。試合後、ビデオで自分の「演技」を研究するのにも力が入る。
怪我にも疲労にも夏の暑さにも負けず、島野さんは試合に出続けた。そして。
ようやく時代が島野さんに追いついた。阪急はオリックスに変わり、舞台はグリーンスタジアムへ。
ブレービーはネッピーとなった。そして何度も書くが、当時のオリックスは、「ボールパーク文化」の
集大成であったと思う。大リーグに全く遜色ない島野さんの動きが、その中心であったのは言うまでもない。
96年には胴上げの輪に加わり、名実共に「日本一のマスコット」となった。
島野さんが「島野さん」を捨て、「ネッピー」であり続けたことが、それを可能にしたのだろう。
島野さんに学ぶことは多い。
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全ての仕事は、プロの仕事たり得る。それぞれの奥深さを持つ。
自分の運命を受け入れ、かつ周囲の目・自分の過去に打ち克つ強さ。
仕事の果実は、自己の実現にあるのではなく、周囲の幸せにある。
少数でも、いや、たったひとりでも、自分を見てくれる人がいる。
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自分に引き写すのもおこがましいのだけれど、なんかいちいち共感をしてしまって。
心の琴線を三味線のバチでジャンジャン叩かれた感じだ。
冒頭の児童書、読んだことはなかったんだが、レビューを読んだだけでウルウルものであった。
買いたいんだけど、子供用ゆえちっと恥ずかしい。買ったら貸してくれい、と誰に私信を。
訃報の時は毎度書いてしまうが、いつもながら、いやいつも以上に、
その人の生きざまから学びを得、それを自分の生で体現してゆくことが、
一番の弔いであろう。末尾ながら、御冥福をお祈りいたします。
今日から交流戦。恒例の「マスコット交流」のあるこの時期を、旅立ちの時期に選ばれたのは、
12球団のマスコットを上からよくみるためであったのだろうか… 惜しいね…