「あきらめない街、石巻。その力に俺たちはなる」1。

*****
東日本大震災から1年。
 日本は復興の真っ最中です。
 被災された方々の中で苦しくて心の整理のつかない方、今も当時のことや亡くなられた方を忘れられず
 悲しみに暮れている方々がたくさんいます。
 人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは 苦しくて辛いことです。
 しかし日本がひとつになり、この苦難を乗り越えることができれば、
 その先に大きな幸せが待っていると信じています。
 だからこそ、日本中に届けます。
 感動、勇気、そして笑顔。
 見せましょう、日本の底力、絆を。
 われわれ高校球児にできること。
 それは全力で戦い抜き、最後まであきらめないことです。
 今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。」
*****
二年と三か月前の春センバツ甲子園において、宮城県石巻工業の阿部翔人主将は上の宣誓を行った。
自分はそれをテレビで見ていた。内容とともに、落ち着いた、それでいて凛とした声が印象的であり、
自然、涙が零れ落ちたものである。
そしてその翌日の試合。相手は実力校の鹿児島・神村学園であった。
*****
「あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる」
*****
力強い筆跡で大書されたその横断幕を掲げ、石巻工は果敢に強豪に立ち向かわんとした。
しかしそこは強豪である。序盤からじりじりと差を広げられ、敗色が立ち込める重苦しい展開となる。
しかし、石巻の選手は宣誓のとおり、横断幕のとおり、あきらめなかった。
中盤にきて二点を返し、なおも満塁。スタンドは既にお祭り騒ぎと化した。
その後、信じられないことがおこる。なんでもない遊ゴロにチャンスは潰えたかに見えたが…
野球の神様の悪戯。打球はイレギュラリーに跳ね、遊撃手が後逸。三人の走者が一挙生還!!!
まさかの逆転。その怒涛の攻撃に、観客には涙ぐむ人もいた。自分もテレビの前で、そうだった。
この「奇跡の攻撃」の代償として、石巻投手が死球を受け、その影響からかその後精彩を欠き、
五点取った後すぐさま五点取られたりし、最終の結果は残念な形とはなった。
しかし、「その力」は十二分に見せてもらった気がする。
それ以来、いつの日か、彼らを育んだ石巻という街を訪れたいと。
また、何ができるかも、できないかもわからないけれど、自分も何かの力になりたいと。
思い続けてきた。しかし、忙しい、休めない、今更行って何ができる、物見遊山では失礼、と
いろいろな理由をつけ、のびのびにしてしまっていた。
つい先日、それがようやく実現した。1泊1.5日の慌ただしい滞在ではあったが、ともかく。
できることは少なかったが、様々なことを思い、感じてきた。
その報告は、また後日に譲りたい。
*****
<本日の言葉>
やはり
「悲しみの先には 必ず大きな幸せが待っている」

あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる―石巻工高野球部の奇跡

あきらめない街、石巻 その力に俺たちはなる―石巻工高野球部の奇跡

観戦記・日本vsコートジボワール。

ううう・・・
がわわ・・・
と、呻いていても仕方がない。そうなってしまったものは、なってしまったのだ。
皆さんは、どこであれ(もう代名詞で言うしかないが)をご覧になっていたでしょうか。
自分は、初めてパブリック・ビューイングなるものに参加したのである。
始まるまでのぐだぐだ感(場内企画のぐだぐださが主原因)と、始まってからの一体感。
そのコントラストが面白かった。それを「日本代表を観に行った」と言っていいかわからんが、
ともかく「日本代表初観戦」であったので、いつも耳慣れた応援歌を声高らかに歌い上げる
その機会は、とても得難いものであった。ところで耳慣れた、とはいっても、あまりしっかり
聞こえているとはいえなかったのであろう。自分は、あの今一番使われる応援歌が、
「おーーーー、ニイッポーーン、ニイッポン、ニイッポン、ニイッポーン」と思ってたが、
昨日の「応援指導」によると、「おー、バモ日本、日本、日本、バモ日本…」だそうである。
語学にうるさいヨメからツッコミが入っていたが、詳細な由来や意味は、よくわからない。
結果は残念であったが、あの時の一瞬の盛り上がりと、知らない人と抱き合い感激を分かち合った
経験は一生忘れられないだろう。あの時は本当にスカッとした。思えばあの時が一番…ぐぐ。
あとは、ご承知のとおりである。しかし、彼が入ってああなってああなった時の、まあ、前者は
仕方ないとして、後者に至るまでのばたばたぶりは、もう少しどうにかならなかったのであろうか。
8年前の豪州戦をVTRで見ているようであった。あそこで落ち着いて立て直す成熟ぶりを観たかったが。
それはやはり難しいのか。それとやっぱ、日本にはがちがちに守るサッカーしかないのであろうか。
と、相変わらず代名詞だらけの文で申し訳ない。まだまだ、直視をできていないのかもしれない。
しかしまあ、まだ終わっていない。残り二戦でどう盛り返すか。重ねて言うが、成熟ぶりを観たい。
選手にも切り替えて欲しいし、自分も切り替えて行きたい。
ところが、困ったことが二つある。こうなってしまった以上、コロンビア戦がガチの闘いになった。
ヨメがお世話になってきて、またこれからもお世話になる国であるので、どうにも複雑なのだ。
できれば、日本コロンビアとも予選突破を決めてから当たって欲しいと思う、とは前にも書いた。
しかしそれもかなわなくなった。自分にとっての「親善試合」とはいかなくなってしまった。
いや、もう一つ「親善試合」になるなり方があるのであるが…、それはどうにも幸せではないですな。
もうひとつ困ったことは。手拍子しすぎたか、或いはあの一瞬の歓びでハイタッチしまくったからか、
指が突き指したみたいに腫れ上がってしまったことだ。疲労骨折に近い状態か、または血行不良か。
なんともやわであることか。もしくはハイタッチが原因だとすれば、その昔「珍プレー好プレー」で
何度か流れた、「ブーマーとハイタッチして脱臼した門田」とかわらないな、これは(オタク)。
まあ、ギリシア戦までには、指の傷も心の傷も、癒えているだろうか。戦いは続く。

『ベルサイユのばら』。

T塚市民としては、一度くらいTカラヅカ(無理矢理伏せる)を観ないとな、と。
前々から思っていて。今度あの『ベルサイユのばら』をやるらしいし、行こう。
丁度100周年で盛り上がっているし、と思いたったが、自分の甘さを思い知った。
隊長!全然チケットが取れないであります!(誰が隊長)
100周年のベルばらを、初めの観劇に選ぶ、その魂胆が間違っていたのだと痛感。
野球に例えると、何十年ぶりに優勝した球団の、日本シリーズのチケットを
にわかもいいところの新参ファンが買うようなものか。出直して来い、てところ。
これから十分にTカラヅカを勉強させてもらい、ジャンルを問わず落ち着いた時の
公演を観させていただいた後、120周年くらいに「ベルばら」をまたやるとしたら、
その時に機会を得たいと思う。わからん。ファンクラブとか入ってたりして。
その一環で、先日Tカラヅカのドキュメンタリーをテレビで観た。普段見知っている
街並みがテレビに出るのは変な感じであったが。まだ見たことのない、内なる世界は、
想像を絶するものだった。正直、なめていた。ファンもスターも、本気度が違う。
また詳しく書くこともあると思うが、その厳しさ、気迫、そして格好よさに痺れた。
涙さえ流してしまったよ。
またもう一つ、Tカラヅカの勉強として、『ベルばら』を大人買って読んでみた。
こんなん、四十越えのオッサンが自分で書店で買うのはとても恥ずかしいだろうが、
今は時代だねえ。ワンクリックで自宅に届いてしまうのだから世話はない。
率直に、面白かった。自分のような新参者が、あれこれ言うのもおこがましいのだけど。
そこに、人間を、女を見た気がする。マリー・アントワネットが、あまりにも哀しい。
あと、オスカルね。男女問わず全ての人間の理想像と、全ての人間の脆さが合わさった、
そんな存在であると思った。言い古された言葉だが、オスカルなくしてTカラヅカは、
あり得なかったに違いない。
ちなみにうちのヨメさんは、アンドレが好きで好きで仕方がないらしい。
自分との差に愕然とするばかりだ。目標にするにしても、あれは果てしなく遠いぞ。
最後に、自分らが少年の頃楽しんでいた少年漫画の幼稚さに比べたら、この漫画は、
なんとオトナなことか、とびっくりした。それを女子は大半は読んでいたと思う。
とても同じ土俵で恋愛しようなど、できようはずがない。
てやったことないけど、とこれは蛇足か。

ベルサイユのばら 全5巻セット (集英社文庫(コミック版))

ベルサイユのばら 全5巻セット (集英社文庫(コミック版))

体験レポ・第34回奥びわ湖健康マラソン。



大阪からえんえんと新快速に揺られ、琵琶湖の北端へやってきた。
永原駅は、ランナーでごった返していた。小さい駅ゆえなお一層の混雑。
西浅井町・奥びわ湖健康マラソン。ゆるゆると、アットホームな雰囲気と。
琵琶湖岸の風光明媚さが目玉のこの大会。知る人ぞ知る人気大会であるそう。
その名に違わぬことは、身をもって体験した。
15kmの部の出走時間が近づくと、少し離れたスタート地点にゆるゆる〜っと
集まるよう指示される。持ちタイム別の区分けや厳格なスタート管理もなく。
ぼけーっと待っているといきなり「ぱん!」と号砲。えええー、始まったの?
タイム計測も「自己管理」であり、おじちゃんおばちゃんが筆ペンで手書きして
完走証を渡してくれるのだが、その際もタイムは「自己申告」である。
ううむ。想像以上のゆるさだ。
活躍していたのは、給水ボランティアの地元中学生であった。
「水です〜」「スポーツドリンクです〜」「頑張ってください〜」「ファイトです〜」
満面の笑顔で、ランナーに語りかけてくれる。元気をいっぱいいっぱいもらった。
自分はマイドリンクを背に走っていたから(そんなことしてたの自分だけ(とヨメ))、
給水をとる必要はなかったのだけど。なんか、中学生から給水をもらいたくって。
喉が渇いていない時も、立ち寄ってしまい。度に「ありがとう!」と声をかけた。
でも、なんなんかね。自分がやってるから言う、というのでもないんだけど。
無言で受け取るランナーが多いのね。あと、飲んだ後のカップをぽいぽい捨てる。
ごみ箱が少ないから仕方ないとも言えようが、にしても、路肩だったらまだしも、
コースの真ん中に捨てるかなあ。「ランナーの真似事」をしているんだろかね。
また、汚い話で恐縮だけど。始終ぺっぺっと痰を吐きながら走る輩とか。
あまつさえ立小便。偏見でものを言うてしまうが、なんでオッサンというのは、
痰を吐き、立小便をする生物なのか。女の人でそんなことすんの、見たことない。
つくづく、男であることが嫌になるわ。
いや、それは正確ではないな。自分が幼少の頃、おばあさんの立小便を見たか。
と、論点がずれるが、そういうの、ランナーとして以前に、人間としてどやねん。
中学生はそんな大人を、どう見たんやろな。レース後体育館で着替えてた時、
横で先生がその中学生を集めて、反省会らしきものを開いていたのだけど。
先生は「みなさんの行為が報いられることも、報いられないこともありますが、
ボランティアの価値はそこにはありません。価値はみなさんの心の内にあります」
的なことをおっしゃってのを漏れ聞いた。ううむ、なんと立派なお言葉。
でもこんなこと言わせる我々ランナーって、なんだかなあ…
ムカついたときは、視線を上げた。抜けるように青い空と萌えいづる新緑。
そして鏡のような琵琶湖の湖面。それを見ていると、嫌な心も洗われた。
しかし競技的には、反省が多い大会となってしまった。
秋〜冬に一本フルマラソンを走ろうと思っているので、それに向けた練習として、
「1キロ5分40秒でべったり走る訓練(そうするとフルのタイムが4時間となる)」
をやろうと思っていたのに、いざ大会となると、アドレナリンが出てしまうのか、
平静を失い、がんがんペースを上げてしまった。かといってあまり速くもなく…
次があるとすれば、自己を抑えることを覚えたい。それがフルの時も非常に大事。
ただま、15km走っても全く、ひざも腰も痛くなかった。これは最大の収穫か。
完走後、出店で購入した(充実!)「焼鯖寿司」と「鴨蕎麦」をパクつきながら、
感想戦」に浸っていた。おいおい、走った後でカーボローディングしてどうする。
*****
<今回の記録>
15km 1時間15分20秒ぐらい(ぐらい?) 順位不明

ブラジルW杯、メンバー決定。

「夜の仕事」のメリットを活かし、リアルタイムで発表を見ていた。
「オオクボ」「おお…」の瞬間も。
「ヨザク」「え?誰?」の戸惑いも。しかと見届けたぞ。
大久保は本当によかった。最近の好調もそうなんだけど、
「本田にものを言える奴が必要」というのも理由としてあったんじゃないか。
また、山口蛍、柿谷のセレッソ勢が選ばれたのも個人的にはよかった。
柿谷なぞ、腐って徳島に出された過去を考えると、隔世の感がある。
反面、憲剛、豊田、ハーフナー、トゥーリオなどこれまた個人的に好きな選手が
選ばれなかったのは残念である。まあ、人数は限られているから。
あちらが立てばこちらが立たないのは仕方がない。
人選を見ての率直な感想は。他所でも言われているところではあるけれど。
「うまい人」を集めたな、反面、「高さ」はもう捨てたんだな、ということだ。
残り時間の少ないところでどうしても一点欲しい、という時に、
いわゆる「ほおりこみ」の戦術が使えそうな人員がいない。それが主な弱点か。
ま、いざとなればいつぞやの「吉田麻也age」をやってのけるんだろうか。
はたまた、「ほおりこみをしないと仕方ないという局面を作らない」という意志の
あらわれなんだろうか。それが本番でどう出るか、楽しみではある。
ともかく、近づいてきた。感染者もとい観戦者としても「アップ」を始めねば。

猫と言語。

猫と縁のない人からは「何をバカな…」と一笑に付されるだろう。
しかし猫飼いの人には、あるいは頷いて頂けるかもしれない。
猫は、少なくともうちの猫はおそらく、言葉がわかっているように思える。
名前を呼ばれると遠くにいてもやって来る。二階から「ほせ、ほせちゃーん」と呼ぶと、
「うにゃうにゃうにゃ!」とまっしぐらに階段を駆け上がってくる(機嫌のいい時は)。
嬉しいのと面白いのとで、用もないのに呼びつけ、「ごめーん、呼んだだけ」と謝る。すまん。
他にも「ごはん」と言うと狂喜乱舞するし。洗濯干しの時だけベランダ侵入を許可しているが、
「はい終わり、もう帰って」と言うと、ホセは素直に帰る。おそと大好きなアントニオは
柔道受け身で抵抗するが、何度か語りかけるとぶつくさ言いながら戻る。いや本当に。
というわけで、リスニングに関してはだいたい問題ないように思える。
ただ、スピーキングとなるとまた別の話で。無理である。まるで自分の英語のようだ、と自爆。
音声器官が人間と全く違うと思われる猫のこと。非常に残念であるが。
ただ、はっきりとは発音できなくても、特にホセは、軽く「にゃー」と甘えるときの声と
「うろうろろー」と怒っているときの声が如実に違うし、それ以外の声もだいぶ聴き分け、
その意味が理解できるようになってきた。アントニオは…、単調だけど。それも個性。
ところで聞いた話であるが、猫はその一生のうち一度だけ、本当に人の言葉が話せるそうな。
その一度だけはずの言葉が「くさい」であったとか、「けちゃっぷ」であったとかとか。
そういう「悲劇」がネットに散見され、しばし腹を抱えて笑った次第である。
ところで、うちの猫たちが、もし一語だけ話すとすると、いったい何を話すのであろうか。
今後の楽しみとしたい。
特に、「魂が大人でいらっしゃる」と思われるアンニュン先生(アントニオ)は、
ものすごく高邁なことを言いそうである。「梵我一如」とか、「心貧しきものは幸い」、とか。
すみません。飼い主バカ全開で…
ホセ殿は…、絶対「苦しゅうない」だな。

目あらば見なさい。耳あらば聞きなさい。

無礼であるー。手打ちにいたすー。

今笑わないと笑うとこないよ。

む。
輝く我が謎、もとい輝く我が名ぞ阪神タイガース。いつもながら好調の四月。
だが、今まで再三騙されてきたので、すっかり疑心暗鬼に陥っており。
はいはい。どうせ交流戦で失速するんやろ。好調なのも今だけや。
どうせ巨人に泳がされているだけやろ、と。なかなか素直になれない自分。
前半ぶっちぎっていて「少しは負けないと面白くない」とか傲慢に思ってたが、
新井さんの腰がいってもたら、同時に優勝もいってもた2008年の悪夢。
最後のマッチレースとなった際、指揮官がてんぱって謎な采配を連発し、
「名将」に差されてしまった1992年の怒り。それらがふつふつと蘇ってくる。
今年も好調な中にも、ちらほらおかしい判断が見られるので。むむう。
というか、しっかり観ているやないか自分。苦笑することしきりだ。
当日記を見返すと、ちょうど同じくらいの時期に浮かれた記事を書いている。
だども結果は…。確かに今はいい。しかし幸せが怖い。トラウマを拭い去れない。
ほんま阪神ファンやってると、ややこしい精神構造になってくるなあ…
ただまあ、最近ではヤケクソになってきてるというか、「今喜ばんでいつ喜ぶ」と。
呪縛から自らを解放し、のびのびと見ちゃうこととしてしまってもいる。
先日も現地に行ってき、六甲颪を熱唱してきた。て、やっぱり観てるやん自分(笑)。
福留と西岡の衝突は、西岡には可哀想だったけど。怪我の功名と言うか。
上本が急成長を遂げ。生え抜き、外国人、外部招聘選手のバランスが実によくなった。
攻撃のバリエーションも増え、観ていて楽しくなってきた感がある。
好調ゴメスも、外角スライダーにバットが止まる「当たり外国人」のようであるし。
星野伸之を思わせる新人左腕・岩崎の粘りのピッチングも特筆に値する。
オ・スンファンもどうにかはまっているし。これで二人くらいイキのいい若手投手が
出てくれば。もしかして、もしかする… ぶるぶる、騙されん、騙されんぞ。