「あきらめない街、石巻。その力に俺たちはなる」5。

翌日、6月11日。あの日から丁度3年と3か月。
地元警察は毎月11日にはいまだ行方不明者の捜索を行うらしい。
いまだ、である。昨日のバーテンさんから聞いた話だ。
この朝の自分は情けなくもひどい宿酔で(あれだけ飲んだら当たり前)。
石巻から仙台への直通バスに揺られながら、座席で丸まって耐え忍んでいた。
道中は結構山間部であり、霧がかかっていた。幻想的だなあ、と感心しつつ
眺めていたが、この霧にあとで悩むこととなるとは、つゆ知らず。
仙台駅から、重い体を引きずるように仙台空港へ。昼ごろには到着した。
もう少しゆっくりしたかったのだが、夜から仕事であったので、やむなし。
空港では、とても受け付ける体調ではなかったのだが、でもせっかくだからと
牛タンを食す。迎え酒ならぬ迎え肉である。でも体調関係なく、うまかった。
機嫌も取り直してきたところで、またアナウンス。空港のアナウンスって、
BGMの一部と言うか、普段は全く意識せず聞き流してしまっているものだが。
何度か耳を通るうち、「大阪・伊丹空港へご出発のお客様…」というフレーズが
ひっかかる。ふんふん。それがどうしたの。いやそれって俺ちゃうんか!
なんと。空港到着時は全然そんなことなかったのだが、牛タンを食べているうちに
みるみる霧がたれこめてきて。滑走路が見えないほどとなっていた。
遅れるか、飛ばないかもしれないから、覚悟しといてね、ということであるらしい。
繰り返すが、自分は帰阪後仕事をせねばならなかったので、背筋を冷たいものが伝った。
やばい。どうしよう。今更代講はたてられへんし、休講かなあ。でも休講連絡を
してもらわないかんし、まずいなあ。ひたすら、焦りまくった。でもどうしようもない。
うろうろと空港内をめぐることぐらいしかできなかった。
幸いにして、しばらくしてから霧は晴れ、事なきを得た。帰阪し、無事仕事もこなした。
いろいろ考えさせられ、教えられた今旅行であったが、最後にも教訓を得た。
普通のことを普通にやり、時が普通に過ぎてゆく。それがどれほど有難いことであるか。
何の変化もない、ともすると面白くない日常。それがどれほど幸せなものであるか。だ。
震災は、それを根こそぎ奪ってしまった。
少なくとも普通のことができ、普通の日常を送ってもらえるようにする。それが震災支援の
最大の目標であるのだろう。そのためには、産業振興や建設、開発も結構なのだけど。
あの酒場のように、人と人が楽しく語り合える機会や場がより大事なのではないか。
同様に、外部としての自分らは、経済的な支援や行動支援ももちろん大事なのだけれど。
何より、そこの人と触れ合い、耳を傾けること。知ること。感じること。が欠かせないと思う。
そして、人を心の中に思い続けること、である。と、今更気づいて非常に申し訳ないのだが。
気付かないままよりまし、とご容赦頂きたい。
確かに問題は山積している。復興への道は果てしなく遠いように思える。
しかし石巻は、あきらめていない。我々も同様にあきらめてはならない。
その思いが、力となってゆくと信じたい。そしてまた訪れたい。
(完。と、ひとまず今回は終わりますが。また必ず続編を)