FBKSBM運動。

FBKSBM。
そんなことは思いもよらない、という人には全く思いもよらないだろう。
しかし、人によっては、首を三百回くらい縦に振って頂けるかとも思う。
え。なんのことか、と。まそう焦りなさんな。そのうちおわかりになる(うざ)。
FBKSBMが一度心に芽生え始めると、もう捕えて離さない。まさに心の虜囚となる。
スマホを開きFBを見るたびに、KSのBMを請い願うようになる。しかしそれは、
口に出して言う、あるいはダイレクトにコメントすることは決して許されない。
かくて今日もFBにはKSが溢れることとなる。折しも連休だ。状況は更にひどい。
これはひとえに自分の心が狭いからかもしれない。そう思うと暗澹となる。
FBにより人の輪は広がる一方、その輪が孫悟空の冠のように心を締めつける。
いかにも逆説的ではあるが、現代の悲劇と言っても大袈裟ではなかろう。
Kが可愛いのは当たり前だ、そのSをUPして何が悪いの、というのはわかる。
あなたにKがいないからそんなこと言うんだ、と一言で片づけられるかもしれん。
ただそういう「私情」はおき、他に自分がFBのKのSのBMを思う客観的理由が三つある。
まず第一は、その「Kが可愛いのは当たり前」という事実に派生する理由だ。
要するに「ツッコむことが許されない」のである。「いいね」、「かわいいね」、
以外のことは書きようがない。書くことは許されない。いきおい、コメント欄は
そういう賛辞でえんえんと埋め尽くされる。ま本人もそれを求めてるんだろけど。
この現代日本において、言論の自由はそこにない。違和感を覚えるのは筆者だけか?
第二は、もっときついこと言ってしまうかもしれないけど、ごくごくフランクに言えば、
「面白くない」のだ。何も自分はKのSを全否定しているわけではない。中には少数だが、
Kがこんな珍しい絵を書きました、こんな面白い発言をしました、というのもあって。
そういう時は、Kののびのびとした奇抜な発想と、UPする親のセンスにうならされる。
そんなKのSだったら、全面的に歓迎するのであるが。
ただやっぱりそれは少数で。非常に多くの場合は、「○○に行きました!(ピースS)」
「○○を食べました!(ピースS)」に終始していて、「おおそうか率」は極めて高い。
バース(.389)なんてもんじゃない。ドカベン山田太郎(推定.800以上)級の高さである。
その○○も、ほう、じゃあ今度行ってみよかな、食べてみよかな、てんだったらいいが。
行ったり食べたりしようがない。関西人の自分が『アド街ック…』観てるような感覚だ。
いったいどないせえっちゅうねん。て話。
…つい熱くなり失礼。第三の理由は、もう少し冷静に、まともな理由。
KのSをUPする人は、「Kの肖像権」をどう考えているのだろう。Kの許可はとってるのか。
法律上の難しい話はわからんが、予想としては、おそらくそれは保護者に属するんだろう。
ただ少なくとも自分は、もし今自分の親が自分のSを友人に見せまくってたらドンびきだ。
それは大人の誰もが思うことだろう。自分が嫌なことをKにすることが果たして許されるのか。
しかも同意もなく、だ。小さい頃だからいい、という論理には首をかしげてしまう。
或いはそういう感情問題以前に、危険だとかは思わないんだろうか。FBのセキュリティを
百歩譲って信じるとしても、このご時世、Sがどこに出回るかわかったもんではないよ。
それが思わぬ禍根となる可能性も考えねばならない。その禍が自分に降りかかるのなら、
自己責任、ということだが、自分では意思決定できないKがそれをかぶることとなれば、
可哀想なこと甚だしいのではないか。
以上、弱気なので直接には言えないので、隠れて(しかも伏せて)書き散らかした次第。
これをお読みになって非常に気分を害された方もいるかもしれない。そういう方は大抵、
FBにKのSをUPしている方であろう。ただ、少数かもしれないけど、記事を書く前に、
「送信」を押す前に、筆者のようなことを考えている者が存在しているということは、
頭の片隅くらいにはおいといて頂きたい。
筆者も偉そうなことを言ってる以上、「ツッコミようのないことは書かない」
「相手側での有効性のないことは書かない」「肖像権に気を配る」
この三点は、常に気をつけなければなるまい。