答えのない答え。

ずっと書かずに避けていた。自分の中でどう理解すればいいのかわからなかったからだ。
しかし、理解などできようはずもないと結論した。先日のグアムでの惨事についてである。
現場のスーパーは、自分がお土産を買ったり買い出しをしたりで何回も寄ったところである。
その上のカフェでは食事をした。また、まさに惨劇が繰り広げられたであろう場所では、
単独行動後にヨメと待ち合わせをした。あれからひと月と少し。そんなことになるとは、
いったい誰が想像できよう。
悲しみ、そして理不尽な思いに輪をかけるのは、おそらく多くの日本人にとり、
グアムを訪問している時というのは、人生の中でも最も楽しいひと時のひとつであろうという、
その事実である。被害者の方々もそうであったと想像する。それが、奈落の底である。
その落差があまりにも残酷である。そして、危機管理うんぬんというけども、あんなん、
被害者には何の落ち度もないし、偶然通りがかった犬に噛まれたようなもので、どうしようもない。
なんでほとんどの人が幸せの絶頂をそのままに帰国するのに、あんなことにならねばならない人が
いるのか。本当にわからない。誠に腹立たしいが、この腹立たしさをぶつける場所もない。
東日本大震災の直後に、「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」と、
日本から子供がローマ法王に質問をしたらしい。法王は、こう答えられたとか。
「私も自問しており、答えはないかもしれない。(十字架にかけられた)キリストも無実の苦しみを
味わっており、神は常にあなたのそばにいる」
なんかわからないようなわかったような、やっぱりわからない答えである。ただ、法王も悩まれてる。
悩んだ末にやってられなくなって、それで辞められるのか、それはわからないが。
神ならぬ人間には、理解できないことが多すぎる。ただできることは、傷ついた人々の心に寄り添う、
それだけであろう。
先日訪れたところの「かんだやぶそば」も燃えてしまったし、タイ(洪水)、会津若松はじめ東北…と、
自分の特に思い入れのある場所が苦境に立たされると、本当に悲しくなるが。悲しみの分だけ、
よけいに寄り添うのが責務というものであろう。信じられなくても理解できなくても、それはできる。