『阪急ブレーブス クロニクル』。

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これも、気づいたら買っていた(苦笑)。急ぎ友人の阪急オタクに注進したが、
オタクはさすがにやはり、言われるまでもなく、もう持っていた。参りました…
非常に読みごたえがあった。充実の内容に、寝食を忘れて読み耽った。
野球ファンならずとも、昭和という時代を生きた男達の躍動には胸躍るはずだ。
たばこの臭いが漂う球場やら、その球場に行く途中の妖しい雑踏やら、
そんなものが脳裏に蘇った。いや自分は少なくともその球場に対しては、
そんな体験をしたことはあまりなかった筈だが。それほど克明な描写だった。
そう。虎党である自分は、阪急ファンではなかった筈なのに、なぜだか
昔からずっと阪急ファンであったかのような錯覚に陥ってきたから不思議だ。
こんなに魅力的なチームがあんなに近くにあったというのに、惜しいことをした。
ただほんま「大人のチーム」であったことは確かだ。今の40歳の脳をそのまま、
8歳くらいの自分の脳に移植してあの時代に送れば、絶対ファンになっただろが。
惜しむらくは、子供なので、魅力に気づくことも自ら情報を取りに行くこともなかった。
阪急の知識をどんなに蓄えても、自分はもう二度と阪急ファンにはなられへんのである。
それが寂しくもあり、悔しくもある。
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ずっと昔に死別してしまった恋人との、思い出に生きること。
思い出は何度も反芻されるたびに、純化され、美化されていく。
それと、歳を重ねるごとに容色が損なわれてゆき、最近では下手に金を持っているので
厚化粧をしセンスの悪い服を着て、ようわからんことばっかりしている古女房と暮らすこと。
そのどちらがいいのだろうか、幸せなのだろうか、と改めて思う。
いや、並べて比べることのできない、全く異次元の話であろうか。
死別した恋人との、思い出だけに生きられたら、それはそれで幸せなのだろうが。
どこからともなく現れたお金持ちの人が、その恋人のクローンを作ってくれて、しばらくは
そのクローンとかりそめの恋を楽しんでいたが、いきなりそのお金持ちが心変わりして、
かつて争っていた男の恋人の遺伝子を混ぜてしまったという、そういう現状では…(例が長いよ)
いや、返す返すも惜しい。本書にも書いてあったが、地元住民とメディアをうまく取り込み、
別な風に切り盛りしていたら、また違ったのだろうが。いやいや、本書の中で福本氏も言っていた
ように、もうちょっとだけ我慢して球団を持ってくれていたら、「こども会」の会員だった
子供たちが球場に帰ってきてくれて、今頃西宮球場は毎週末盛況となってたのであろうが…
阪急さん、今からでも遅くない。もう一度やってくれへんかなあ。
T塚ガーデンフィールズを閉めるんやったら(本当)、ちょうどその跡に作ったらええやんか。
(狭いかもしれんけど) そうなったら、地元民として、人生をなげうってでも応援するで。
と、冗談のつもりで書いたのだが。今『南海ホークスがあったころ』という本を読んでいるが(またか)、
それによると、かつてその地には「T塚球場」という球場があって、そこには阪急球団のルーツが
あるのだという。非常に驚いた。これは偶然ではない。もう一度作っとかなあかんやろ(強引な論理)。
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<本日のおまけ>
巨人との日本シリーズ、岡村捕手退場のシーンについて。
村山実のあれがファールであるように、あれは自分の中ではセーフである。
何、証拠写真がある?写真が間違っているんじゃない?(笑) アンチ巨人の総意だ。