『ブラック・スワン』。

先日遅れ馳せながら、観てきた。毎度お世話になっている、近くの映画館。
忘れた頃に名画をやってくれるので重宝だ。これ、ほんまに映画館で観てよかった。
終盤の迫真演技と、ラストの「恍惚感」(おっとネタバレ寸前)、大画面でこそ強調される。
ずっと前に、上沼恵美子氏がこの映画を評されてたのを、ラジオで聞いたが、その時、
*****
「あんたむいてへんわ」
*****
の一言で片づけていた。まさに至言であると思う。いやほんまそう。鑑賞中ずっと思てた。
あと自分が思ったのが、「親孝行な子やのに、さかむけで悩まなあかん」ことの逆説やね。
後で書くが、この逆説の不条理こそ、この映画のキモ(そしてキモいとこ)であると思う。
あと、主演のナタリー・ポートマンが凄かった。さすがアカデミーとったは伊達じゃない。
特に振付師とのナンだかのカラミ(物理的には大してカラマないが、て何のこっちゃ)、
あれは演技の域を超えているな、と思った。そう思てただけで、全然知らんかったのですが、
なるほど、そいうことですか。(どういうことですか)
ともかく賛否ある問題作ではあるが、反論もどっしり受け止めるだけのフトコロの広さがある。
自分はまさに名画だ、と思った。ただ、バレエ好きな人にとっては、また違うんだろな。
以下はたいしたことないですが、ネタバレ感想。反転します。




先にも述べたが、二項対立、逆説、矛盾、そいうものが、この映画には散りばめられている。
白と黒、というメインテーマからしてそうだ。また、親への愛・依存心と、親への嫌悪・反発心。
「聖母としての女」と「娼婦としての女」の相克、てのもあるんちゃうかなあ、と。
完璧を求めてあがけばあがくほど、完璧からは離れて行く、とことの悲劇もあろう。
そのバランスを、普通の人はいい加減に(これは良い意味で悪い意味でも)とっているし。
普通は問題は起こらんのやろけど。なまじある程度こなせてしまったが故に生まれた悲劇かいな。
ほどほどがええんやろな。でも、ほどほどやと、やっぱほどほどにしかならんわけやし…
何かを極めようというからには、そこが難しいわな。それもまた、矛盾、ても言えそうやね。
矛盾と言えば、人間の根本からして矛盾やし。人間の誕生、という最も神聖であるべき瞬間が、
最も隠すべき恥ずべき(でも本当はしたくて、見たくて仕方ない)プロセスを経ないといけない。
何かを生み出すためには、まっさらのままでは無理であり、創造には破壊が必要である。
最後の方の、自分の中に異物が入りまくっているシーンや、白い服が血で染まって行くシーン。
また、最後の恍惚のシーンは、そいう(どいう?)ところが象徴されてるんではないかな。
その後の虚しさまで、よく描けている、て、ごめん。どうしてもそっちに話を持って行って。
フロイトかお前は、と。
閑話休題
親からや成功へのプレッシャーと、それに潰されてく主人公の壊れっぷり。ささくれより何より、
それが痛々しかったな。フィクションでは済まされぬ、ドキュメンタリータッチであるよ。
最後に、どこまでがほんまやったんやろ。ライバルは? お母さんは本当にあそこにいたのか?
つうか、最後はあのままほんまに死んだんやろうか。あるいは象徴的な「死=再生」なのか。
いくらでも話はつきへんが、きりがないので、このへんで。





<本日の言葉>
ブラックスワン理論』

て言葉があるらしいすね。今回初めて知りましたが。常に「想定外」を想定しなければならない、
つう感じですかね。まあ、当たり前と言えば当たり前のことであるだろうが。
あ、この映画が面白いという想定は外れませんよ。たぶん。