タイ珍道中3「戦場に架ける橋」。







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三日目は、バンコクの遥か北方。ビルマ国境への道半ば。
カンチャナブリを訪れた。カンチャンにフッてしまうような、いささか
ゲンの悪い名前である。いやいかん、私は麻雀を知らないんだった。
ここは、かの名画『戦場に架ける橋』の舞台としてあまりにも有名だ。
先の第二次世界大戦において、周知の如く、日本軍は前半戦好調だった。
しかし中盤にかけて日本にとっての戦況は悪化。海上輸送が困難となり始め、
代替経路として、日本軍はタイとビルマ、そしてインドを結ぶ鉄道敷設を急ぐ。
そのための労働力として、連合国軍捕虜や多数の地元アジア人が投入された。
ジャングルという悪条件に加え、早期完成を焦るがための無理な計画も原因で、
多数の労働者が亡くなったという。所謂「死の鉄道」こと泰緬鉄道の悲劇である。
このへんは、前述の映画に詳しい(脚色もあろうが)ので、是非ご覧頂きたい。
現在泰緬鉄道は、一部タイ国鉄により運行されているが、ビルマまでは通じていない。
昔は通じていたが、ビルマからの移民に困ったタイ当局が塞いでしまった、という。
戦争が終わって久しい今もなお、悲劇は続いているかのようである。
蛇足。ビルマは今「ミャンマー」が正式名称だが、自分は敢えてこの名は使わない。
ヨメの学生に「ミャンマー」からの留学生が昔いて、授業で、自分の国をスペイン語
言ってみましょう、みたいになった時。「あなたはミャンマーよね、何ていうのかな?」
と問うと、「僕はビルマ人だ。ミャンマー人じゃない。」と答えたのだという。そんなで。
話を戻すと。今回その鉄道に乗る機会を得た。鉄道オタクとしては嬉しい悲鳴だった。
また、「戦場に架ける橋」はトレッキングできる。『スタンド・バイ・ミー』的でよかった。
印象深かったのは、「戦争博物館」だ。日本にある戦争関連の施設には結構行ったのだが、
こういった「加害者」としての施設を訪れるのは初めてであった。何とも言えぬ感覚だった。
凄惨を極める記述や展示物に心は痛んだが、「でも俺らの先祖だって苦しんだんやで…」と、
気持ちが沸き上がるのは正直止められなかった。いやそういう、俺ら彼らていうのがあかんな。
皆が戦争と、人間の愚かさによる被害者なんや、と思いなおした。
博物館の片隅には、戦争後の人生全てを、この地での慰霊と、「歴史の存続」等に捧げたという
日本人の像があった。『ビルマの竪琴』にも似た話だが、この永瀬さんという方が偉いのは、
日本人はもとより、連合国軍兵士も、地元民も、含めた全ての人間に目を配られていたことだ。
素晴らしい出会いに感謝。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%80%AC%E9%9A%86
夜は、これも楽しみにしていた、ムエタイ観戦に。
昼間、戦争と平和に思いを馳せたその晩に、敢えて闘いの場に行くのも微妙だが(苦笑)。
さすがはタイの国技。試合前の儀式や、試合中奏でられる音楽等の雰囲気は厳粛だった。
それでいて、柵の外(自由席?)で騒ぐ観客とのコントラストが非常に面白かった。
ええわー。この殺伐とした感じ。昔の(そして来年以降の?←毒)甲子園球場のようで。
一部試合には金が賭けられているようで、その間のヤジは特に凄かった。意味がわからんだけ怖い。
そして金が賭けられていない試合は、お休みタイムらしく、その静けさも眺めるだけで楽しかった。
ただ、試合自体は、観戦初心者には正直難しかったな。ルールがわかるまで大分時間かかったし。
KOは一瞬の出来事でようわからん。判定勝負になると、最終ラウンドではぐるぐる回るだけになるし。
お前ら「猪木vsモハメド・アリ」か、みたいな。いや、格闘技あんま知らんのに言うたらいかんな。
この日は、全部で10試合あったのだが、最初のほうはいかにも前座みたいな感じだった。
途中、リングサイドに大勢の兄弟を引きつれている選手もいた。左門豊作さながらであった(何)。
7試合目くらいが一番盛り上がってた。選手も強そうだった。この勝負が一瞬で終わったのが残念。
その後いきなり場内がガラガラになった。えええ、あと3勝負あるやん何でー、と思ってたら、
また弱そうな人が出てきて納得。次があるとすれば、自分の中での盛り上がりのペースを考えな。
最後まで観てしまいすっかり夜遅くなったので、少しドキドキしながらホテルへ帰る。
ドキドキも旅行のうちとはいいながら、やっぱ生きた心地はしない。やはり平和と安全が一番だ。
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<本日の言葉>
「泰緬鉄道乗車証書」に書いている言葉。少し長いですが、全文引用します。鉄道オタク落涙必至。


「誇りの証書」
 数百万人の人々がタイ国を訪れ、その数百万人の人々の大部分が、見事な文化、豊饒な大地、美しい風景、
そして千年以上に渡り受け継がれてきた異教的歴史的古典風習を学んできました。
 その数百万人の1人であるあなたは、第2次世界大戦で死の鉄道とクワイ河鉄橋として有名になった場所に、
足を運んだ幸運な旅行者です。現在、カンチャナブリー県の中心に位置する死の鉄道とクワイ河鉄橋は、過去
多くの苦痛と困難、死者を出した場所として記憶されています。
 列車は全人類の悲しみを通り過ぎ、人類の気持ちを癒す自然からの恵みを受けた平穏幸福で、美しい場所
となった時代まで走り抜けます。列車が通り過ぎていく谷や河は、まるで切り取った1枚の絵画のように見え、
すがすがしい水流と森林から醸し出される音は、騒々しく混乱に満ちた世界より、人の魂を解き放ち、雄大
自然の懐の元へと導いて行きます。
 私たちは、外の世界がタイ国カンチャナブリー県クワイ河と同じように、平穏幸福であればと願います。