『終末のフール』。

終末のフール (集英社文庫)

終末のフール (集英社文庫)

実は大分前に読了していたのであるが。
今回、思うとこあって、取り上げることとした。
「八年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。そう予告されてから五年が過ぎた頃」
という、少しややこしい場面設定である。それが何とも言えぬ独特の世界観を醸し出している。
ひとときの大パニックはひと段落し、人々は少し落ち着きを取り戻した。
しかし、状況は実のところ何も変わっていない。そんな中、人々はそれぞれの立場で、それぞれに苦しみ、
そしてそれぞれの「意味」を探っていく。かいつまんで言うと、そういう話である。
地球が滅亡するとわかったら、どうするか。誰しもが一度は夢想するテーマであると思う。
もう未来を前提とした活動には意味がない。教育も経済活動も、やっても無駄。規律なんて糞くらえ。
やりたいように無茶苦茶やったれ。多くの人がそうなってしまうと、予想はされよう。
或いは、どうせ死ぬなら、死ぬよ、と死を選ぶ人もいるかもしれない。冷静に考えると落語のような逆説だが。
ただ、そういう狂乱の、いわば澱のようなものが流れてしまうと、人間の本当のありかたが見えてくる。
それは、こうあるべき!という大上段の構えじゃなくって、怯え縮こまりながらも、でも、生きていく、
そういう等身大の人間像である気がする。それが、本書には何パターンも表れているのが面白い。
終末のフール。
太陽のシール。
籠城のピール。
冬眠のガール。
・・・
とハライチのネタを彷彿とさせる章立てに、そのパターンが散りばめられている。
それが最後にだんだん繋がって行く手法はRPGを思わせる。そして、本当の最後は… おっとそれは言えない(うざ)
一見特殊な場面設定のように見えるが、実は我々全てに「終末」があることはわかりきったことである。
それがバラバラなのか、みんないっぺんに、なのかの違いだけで。或いは、究極的な目で見れば、全人類も地球も
決して無限の存在ではない。それを、普段はみんな忘れている。いや、見ないようにしている。
じゃあ、思い出したところで、見たところで、どうするのか。それが難しい。非常に難しい。
ごめんなさい。なんかまとまらんで。でも、こういうことについて、まとまってもの言える人っているんかいな。
今回この本を取り上げるに至った理由は二つある。
一つは取り上げた理由というより、今まで取り上げられなかった理由であろうか。
それは、この本の舞台が仙台であったことである。そして、随所に、特に終り頃に、今回の震災と
妙にかぶせてしまう箇所が出ているのだ。とてつもなく大きな運命と、それに対峙する人間と、
その象徴的な構図がある。それはただ、自分を沈思黙考させるばかりである。
考えるだけじゃなくて動かないかんのだが。
もうひとつは。ある猫のことである。それでこの本をまた、思い出したのだ。
前にも書いたが、実は、もともとは今いる猫とは別の子猫を一匹もらいたいな、と思っており、
ホセをその子守役に、と考えていたのだ(失礼な!by ホセ) 諸事情でそれは実現しなかった。
その子猫は、先日亡くなったということである。
子猫は白血病キャリアで、もう長くは生きられないとわかってしまっていたそうだ。必ず短命である、と。
(それが、その子猫をもらわなかった理由ではない。それはあとで耳にした)
その話を聞いて、深く考えた。すぐに亡くなるとわかっているのに、なぜ生きねばならないのだろうか?
答えは全然出ないねんけど。でも、やっぱそこにはなにがしかの意味があるはず。いやあってほしい。
それはわからない。ただわかるのは、猫は意味とか以前に、一生懸命生きている、ということではないか、と。
一年草は一年の命に文句は言わない。言うどころか、見事花を咲かせ、種を結ぶ。と。
ごめんなさい、書けば書くほど、わけわからんくなって。
ともかく、この本、おすすめです! 
て、その一言で済む話が。とんでもなく長く。
*****
<本日の言葉>
「みんな一緒だ、そうだろ? そりゃ、怖いぜ。でも、俺たちの不安は消えた。
 俺たちはたぶん、リキと一緒に死ぬだろう。っていうかさ、みんな一緒だろ。
 そう思ったらさ、すげえ楽になったんだ。」

*             
…「太陽のシール」の一場面。ここも強烈に印象に残っている。