大相撲・八百長問題に思う。

自分としては、何を今さら、というのが正直なところだが。
あれは中学校の頃だったか高校の頃だったか。当時の英語の先生が、
ホームルームだったか授業中だったかは忘れてしまったが、そこで突然、
「僕は、前々から不思議に思っていたことがあるんですが…」
と話し始めた。ほうほう、何?、と身を乗り出すと、
「何故、7勝7敗の力士は、ほとんどが勝つのでしょうか…」 と。
あまりの唐突さに、何の話やねん!とのけぞった思いがしたと同時に、
世の中そんなものなのか…、と認識を新たにしたことを覚えている。
同様の「疑惑」は多々あるし、今まで何度も何度もマスコミを賑わせていた。
また、落語や講談、歌舞伎では、「八百長」そのものを扱った話も多々あると聞く。
で、今回の騒動である。なんかマスコミは、親の敵みたいに八百長を叩いているが。
八百長の有無をほじくり返すことに躍起になる一方、そういう、歴史的経緯とか、
相撲文化に対する理解とか、そもそも、八百長っていけないことなのか? という議論が
置き去りにされている感がある。昔「金儲け、悪いことですかねえ?」と、嘯いた人がいたけど、
八百長、悪いことですかねえ?」と一人ぐらい言う人がおっても、面白いと思うが。
何故、八百長は悪なのか? 結構深い議論かと思う。サンデル先生にでも聞いてみたいとこだが、
それも叶わないので、しばらく自分でぐちゃぐちゃと考えてみる。
たとえば、プロレスを八百長だと弾劾する人は少ない。みんな「わかってる」んである。
で「わかってる」なかでの魅せる技、とか、予定調和を楽しんでいる。八百長、という言葉は、
「それを言っちゃあおしまいよ」て感じで。口にするも無粋。こうして書くこと自体、無粋である。
八百長が「面白さ」を演出するためのツールとなっている。ここでは、「面白くないこと」が悪、だ。
或いは、亡くなってしまったギャンブル好きな先輩が、生前自分に話していたのだが。
「競馬もええけど、競艇や競輪がええで。馬は何も考えへんけど、人間はいろいろ考えとるからな」と。
先輩が言うには、この人とこの人は協力しあうはず、とか、この人はこの人に勝ったらだめやねん、
とかいうのがあるらしい(事実関係はわからない)。それを読んだ上で勝負を読み切るのが醍醐味、と。
そういうの、知ってる人は楽しいだろうが、知らない人は、たまったものではないだろう。
知らない人は知る努力をせよ、という向きもあろうが。ここでは「情報の偏り」が、悪である。
今回の件はファンにとり面白くもなければ、情報も全く与えられていない。そこにこそ問題がありそうだが。
いつものごとく、だいぶ話がずれてしまったが、あと、方々で言われているのが、
近代的スポーツマンシップと相撲が相容れるのか、という問題。これは相撲はスポーツなのか?という
根源的問いに繋がっていく。スポーツそのものの定義にも関わる深い問題ではなかろうか。
いっそプロレスくらいまでいってしまったら誰も文句はいわんだろうが。中途半端な立ち位置が生んだ悲劇か。
もちろん、八百長にともない、黒い金銭が飛び交っているとすれば、そこには絶対悪があるかもしれない。
ただ、そこはそことして、分けて考えるべきではないかと思う。そここそ、本当にポイントであるだろうに、
おそらく、ここまで突っ込んだ議論もなければ、解決も図られないのではないか、と諦観している。
以上、毎度のごとくぐちゃぐちゃと書いてしまったが。
普段相撲など見ないような人が、血相変えて、何か恨みでもあるんか、いうくらい声を荒げている。
そういう現況に猛烈な違和感を覚えているため、書き記した。
結局、みんな弱りかけているもんを叩くんが好きなんかな、と。
蛇足ながら、大阪場所やから簡単に中止したんかなあ、てのは被害妄想やろか。
東京場所やったら違ったかも? 余計なこと言ったかな。ま、それだけ残念だ、てことで。