生。


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すみません、旅行記、引っ張って申し訳ないですが。
今日はやはりこのことを書かないかんでしょう。
昨日、職場の新年会の帰りT塚まで戻ったところ、もうちっと飲みたいなと、
行きつけのバー(といって、三度目だが)目指して、M庫川を渡っていた。
全然そんなもんがあると、頭の中にはなかったのだが、偶然、この「生」の字を見つけた。
震災の時、誰だか現代アートの人が、鎮魂と再生への祈りの意味をこめ、石でこの「生」を
作ったのだという。そのエピソードは、有川浩さんの小説「阪急電車」の一場面に描かれ、
「生」から「生中(なまちゅう)」を連想するエピソードは、なんともほほえましい。
今年その「阪急電車」が映画化されるそうで、その関係で、今回の「復活」となったのだろう。
寒風吹きすさぶ橋の上から、照らされる「生」を眺め、つらつらと16年前のことを考えていた。
自分と震災の距離感、て実は測りづらくって。正直、心の持って行き方が、よくわからない。
体を突き上げる揺れと、その後の多少の不自由を体感した者としては、自分も被害を受けたように感じ、
阪神淡路をわが事のように語ってしまう傾向もある。が、自分は何も失っていないし、何も傷ついていない。
またあの時、阪神淡路のために何かしたか、いうたら、何もしていない。心を痛めた、つうくらいである。
どの面下げて、わかったような口がきけるか、という思いが心を占めてしまうのだ。
その当時よりも、もうちっと被災地に近づいて今、居を構える者としては、
あの日の出来事、そしてあの時何も失わなかった自分、何もしなかった自分、をよくよく覚えておくこと。
そこからはじめな、いかんのではないかと。そう思うのである。
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<本日の言葉>
「人間は二度死ぬ。肉体が滅びた時と、みんなに忘れ去られた時だ。 」
                    松田優作