壮大なる第九物語。

何回も恐縮。今回も「一万人の第九」で。12回のレギュラーレッスンが終了。
なんとか皆勤できた。思えば、レッスンが始まったのは、まだ暑い盛りだった。
忘れもしない。沖縄の悲願を背負った興南高とイケメンエース擁する東海大相模高、
両校が甲子園で雌雄を決する日、であった。自分はこの大一番を是非生で観たかった。
しかし、情報によると朝から並ばないと入場は到底叶わぬ、とのこと。ううむ、と。
うっかり初日からレッスンをブチりそうになったが、なんとか思いとどまった。
が、野球観たいよう、何が悲しゅうてこんなレッスン申し込んだのか、と後悔しきり。
今にして思えば懐かしい話だ。また、その日自分にとって敵役だった相模のエースと、
まさか縁ができるとは、夢にも思わなかった。当時はイケ好かない感じだったが、
いざこうなってしまうと、いやもう、華がある! 無限の可能性を秘めた若者よ!
また「一二三」という名前が括弧良すぎる! と掌を返してしまった自分に苦笑、だ。
しかしこれまた、すごい素材やけど、難しい素材やぞ。うちの育成の手に負えるのか?
今のサイドでいかすのか、オーバーに戻すのか。できれば戻して大きく育てて欲しいな。
いや、サイドがあかんてわけやないんやけど。あの体格でサイドはもったいないし…
・・・・
失礼、今日は野球の話ではなかった。「第九」であった。
で、レギュラーレッスンの最後は、今までやった部分の復習をまじえつつ、先生が
第九にまつわる諸々のお話を聞かせてくだすった。非常に中身が濃く、面白かった。
中身が濃すぎて、復習の方が中途になったのは残念だったが。それは自分で補えばよい。
前にも書いたが、第九はベートーベン(とシラー)が全人類に送った熱きメッセージである。
せっかくの先生の素晴らしいお話を、自分が薄めて曲げて伝えるのも申し訳ないのだが。
お話を聞いて自分なりに、自分の中に出来上がった「第九物語」は、こうである。
第四楽章後半の合唱部分は、不協和音とおどろおどろしいテーマで始まる。そしてその後。
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(1)『おお友よ、この調べではない!
 もっと快い、喜びに満ちた調べに、ともに声を合わせよう。』
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「こんなん音楽ちゃう!」、と第一楽章から一時間くらいやってきた演奏の、全否定である。
「じゃあ、合唱からやればいいじゃん」、とは言わない約束なのだろう。
「いろいろあったろうけど、全部チャラで、みんなノッてこうぜ!」的な開き直り、とも言える。
ちなみに『この調べ』には第九の第一〜第三楽章はもとより、今までの彼の手による全部の楽曲、
即ち第五『運命』も第六『田園』とかも全部入っているんだとか。このことをを聞いた後では、
また違った耳でベートーベンを聴くことになろうかとも思う。
そしてその後あまりにも有名な、これ。
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(2)『歓喜! 美しき神々の火花! 楽園の乙女!
 我ら皆火の酒に酔い、天のあなたの聖殿に踏み入る!
 世の習わしは(我々を)厳しく分け隔てるけれども、
 あなたの魔力が再び結びつける。
 あなたの柔らかい羽につつまれ、全ての人類は兄弟となる。』
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どうでもいいが、「火の酒」と聞くと「唇に火の酒、背中に人生を… ありがとう、ジェニー…」
を思い出してしまう、沢田研二ファンの私であるが。それは本当にどうでもよかった。
最初はバリトンのソロから、だんだん歌い手が増えていく形。まさに「兄弟」が増えていく感覚だ。
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(3)『大いなることに成功し、一人の友の友となり、
 優しき女性を得た人は、歓喜の声に唱和せよ!
 そうだ、この地上でただ一つの魂しか自分のものと呼ぶことができない者も!
 そして、それを出来なかった人は、この集いから泣きながら立ち去れ!』
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歓喜合唱団、団員募集。参加資格、生きてる人全て。てとこだろうか。それと、
「残念だね、のび太。この集いは、三人用なんだ。」by スネ夫
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(4)『生きとし生ける者は、歓喜を自然の乳房より飲む。
 良きも、悪きもおしなべて、薔薇の道を辿る。
 それはまた、我らに接吻と葡萄の蔓と、死の試練を経た友を与えた。
 虫けらにも快楽が与えられ、天使ケルビムは、神の御前に立つ。』
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キリスト教的な語句がずらずら並ぶ、とされているこの「第九」であるが、この部分、
善人も、悪人も、虫けらさえにも喜びを!というのには、仏教的なものをも感じさせる。
「死の試練を経た友」のところでまた、ぐっとくる。
天使ケルビム(ウィザードリーを思い出す)の登場で、合唱は前半のクライマックスを迎える。
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(5)『喜びよ。太陽が大空を駆けるが如く。壮麗なる天の軌道を渡るが如く。
 駆けよ、兄弟よ。自らの道を。喜びに満ち、勝利に進む英雄の如く。』
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歓喜の世界へ、わーいわーい、と入っていく感覚だ。勇壮な歌詞に、軽快なマーチのリズム。
自分的には一番好きな部分かもしれない。比較的歌うのが楽だから、というのもあるが。
その後の間奏の部分は先生曰く、休憩ではなく非常に重要だそう。歓喜を巡る勇者たちの戦い。
チャンチャンバラバラの末、戦いの結末は… ま、その後は一番有名なあの部分が示すとおり。
歌詞的には上の(2)と同じだが、前がソロのリードに従っていたのに対し、ここでは周知のように
全体合唱。歓喜が隅々まで行き渡る感覚なのだろうか。その歓喜さめやらぬ中、天の声が…
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(6)『幾百万の人々よ、我が抱擁を受けよ! この接吻を全世界に!』  
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そして地は呼応する。ここは天と地との「対話」だ。
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(7)『兄弟よ。星の天蓋の上に愛する父が住んでいるに違いない。』
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「違いない」と言いつつ、星の天蓋をノックするが、返事がない。不安が募る。
いやどないしょ、いるに違いない、よね?よね?なあ、そう思わん?という問い。
それから、やっぱりいるんだよ!という確信の唱和。それが天に響き渡るのが、次。
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(8)『汝らひれ伏すや? 幾百万の人々よ?
 創造主を予感するか? 世界よ?
 星の円蓋の彼方に創造主を求めよう!
 星々の上に、創造主が住んでいるに違いない。』
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で、フーガ(それぞれのパートが遅れながら重なってゆくところ。「蛙の歌」的に)。
ここは、それぞれの人が、それぞれのやり方で、それぞれの場所で、歓喜の声を発する、と。
バラバラなようで、まとまっている。違う方向を向いているようで、実は同じ方を向いている。
個と全体の調和、なのだと。先生にこの話を聞いたとき、涙がでそうになるほど感動した。
ベートーベン、やばいよ。ぱねえよ! 、とその感動を表す語彙が貧しいのがもどかしい。
残念ながら、レッスンはこのフーガのとこで時間切れとなってしまった。
で、「最後の最後だけ歌って終わった気になりましょう」と、最後のフロイデシェーネル…
だけ歌うこととなってしまったが。ま、このフーガのとこまでで十分、おなか一杯だった。
自分の幸せとは? 周囲の幸せとは? 人類の幸せとは?
いや、人類のみならず、全宇宙の生命にとっての幸せとは?
そこまで考えをベートーベンは巡らせているのではないか、と。
そしてその実現ための鍵がこの「第九」の中にあるのではないか、と。そんな気がするのである。
そう考えて歌うと、泣けてしまって歌えない気がするから、
今まで書いたようなことは忘れて無心で歌うこととする。(今まで書いた意味はどこに?)