「負けてたまるか」。

学校の先生の思い出、というと勉強以外のことばかり、というのは万人に共通する法則か。
今、逆の立場のハシクレにいる者としては、いささか複雑だが、肝に銘ずべきことだろう。
特に、ひとりの担任と四六時中をともにする小学校においては、先生の個性が強烈に頭に残る。
昔のユルさゆえか、或いは今もそうなのかはわからないが、先生の中には好き放題やってた人もいた。
今から考えれば、指導要領はどこへやら、という感じだが。まあ、幸運にして面白いからよかった。
この状況というのも、万人に共通するものなのか、自分だけの特殊例なのか。それはわからない。
小学校2年生の時のY先生は、おじいさんで。ヨガとか精神修養とか、オーラや臍下丹田の話とかを
授業に取り入れていた。これも今から考えれば、小学校2年生に何さすねん、と言わざるを得ない。
勉強は何習ったか覚えてないが、先生に習った「呼吸法」の極意はいまだ頭に残っている。
くしゃくしゃっと頭をなでてくれた、その大きい手の感触とともに、だ。
クラス替えがあって、3・4年生の時のN先生もそれはまた、個性的な先生だった。
当時そんな言葉はなかったが、いわゆるイケメソで、すらりと伸びた足が印象的だった(と思えた)。
N先生にも、勉強は何習ったのか一切覚えていない。しかし勉強以外の思い出ならいくらでもある。
リコーダーの授業では、「課題曲」が段階的に設定され、この曲が吹けたら何級、と決められた。
教室内には誰が何級かが掲示され、みんな級を上げんと必死で練習した。今なら考えれんことだ。
「課題曲」も、最初の10級は「きらきら星」だったが、級が進むと当たり前のことに、複雑な曲に。
サウンド・オブ・サイレンス」や「南回帰線」という選曲は、今から思えば文部省一切無視、だろう。
また、スポーツマンである先生は、有志を集めて「早朝マラソン会」を催していた。
いきさつは忘れてしまったが、何故かそれに自分も参加していた。一回参加するとスタンプがもらえる。
スタンプカードは、最初は新幹線の駅名だった。新大阪から京都、米原、と東京まで行ってしまうと、
次は逆に新大阪から博多まで、と。それが終わってしまうとネタに困ったのか先生は、鉄道オタクだった
私にカード作成を命じられた。これもいきさつを忘れたが、先生の家に一人呼ばれた作った。
ご飯まで御馳走になった。そのカードは稚内から鹿児島までを乗り継ぎで移動する、それは細かいものだった。
音威子府、とか名寄、とかいう地名を書き込んでいたのは覚えているが、そのカードが実際使用されたかは
覚えていないし、また、疑問ではある。まあ不純ではあれ、マラソンを続ける動機とはなりえた。
でその後、男女混合駅伝大会、みたいのがあった時、先生は私をアンカーに指名した。
少年野球のセレクションに落ちたこともあり、「運痴」の名を欲しいままにしていた私が指名されたことに
クラスのみんなは驚きとも抗議ともつかない声をあげた。四面楚歌となった私に先生が助け舟をだした。
「こいつ結構、長距離『は』やると思うねん。まあ見てみ」
「は」の強調が気にはなったが、意気に感じた私は燃えた。「負けてたまるか」。
事実、駅伝では、二位でたすきをもらい、前の走者をついに抜き去り、ゴールテープを切った。
あまり経験のない感覚だったので嬉しかった。もっとも前の走者が女子だったので、後味悪さは残った。
「負けてたまるか」というのは、このクラスの合言葉だった。クラス通信や、運動会の垂れ幕、
クラス最後の寄せ書きには必ず、この言葉があった。たぶん、先生が好きな言葉だったのだろう。
ある日、授業をつぶして(つぶれることは多々あった)、「大声コンテストをやろう」となった。
ひとりずつ「負けてたまるか」と叫ぼう。誰が一番大声か、一番の人には…。と、自分の番が来た。
よし一番大きな声をだしてやろう、と声を張り上げたら、「け」くらいで声が裏返って、あとは出なかった。
月日は流れ、「負けてたまるか」と思わなければならない局面が多々あった。
そういう時、この二つの出来事を思い出した。幸運にしてうまくいくときは、すっとうまくいく。
しかし意気込みすぎると、かえって大きい声は出ない。これが先生の教えたかったことかはわからない。
自分なりの解釈である。これを忘れて失敗したこともあるし、覚えててうまくいったこともある。
てゆうか今、思い出さないといけない時かもしれん。