みちのく珍道中3「静かな湖畔の…」


朝もやの十和田湖

乙女の像。右と左のお嬢さんは同じ人、だそう。

台座には湖面が映るようにと、意図されているのだとか。

数少ないツーショットが、図らずも。

船の上から。タカミの見物。

発荷峠展望台からの十和田湖
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8月10日。
湖畔にはやはり、朝がよく似合う。
慣れぬ早起きをし、ガイド付早朝湖畔散策ツアーに参加した。
時々方言を交えるガイドさんの話は面白く、ためになった。
その中でも、「南部と津軽の対抗意識」の話が興味深かった。
我々他地方の者からすると、八戸も弘前も青森も、「青森」
ともすると「津軽」とひとくくりに考えてしまいがちだ。
しかしその実、青森と弘前を中心とする旧津軽藩領「津軽」、
そして岩手北部から八戸、下北半島にかけての旧南部藩「南部」、
それらはもともと別国であり、今に至り風習も言葉も違うのだとか。
後日訪れた、ねぶた祭りについての資料館に、津軽各地に点在する
ねぶ(ぷ)たの風習についての案内図があったのだが、その図の
東半分、つまり旧南部藩領は、見事に真っ白だった。まさに別々の国。
この南部と津軽、古くは戦国時代から新しくは(?)戊辰戦争に至るまで、
遺恨に遺恨を積み重ね、それはそれは仲が悪い、ということである。
「今年は南部のチームが甲子園に出てるので(八戸工大一高)、
 津軽の人間は『おもしろくね』と言ってます。」
「自分は南部の人間なんすけど、『津軽』とか『青森』とか一緒にされっと、
 少しイラッとします。」
この、豆を煮るに豆ガラを焚く、骨肉の争いよ。ご近所付き合いが一番難しい。
一瞬失礼ながら、U字工事の「栃木と茨城の対抗意識」を思い出してしまった。
そういやうちら関西の人間も、「関西」とひとくくりにされると微妙、と思ってしまう。
京都と大阪と神戸、それぞれにアイデンティティを持ち、独立意識を持っているのだけど。
ついでに、その「大阪」にも「摂津」と「河内」と「和泉」があるわけなんだが。
よそから見ると、どこがちがうの、ということになってしまう。それに似ているか。
より大きくは、日本と韓国の関係も、そんなもんなんかもしれない。
失礼、また話が長くなった。
散策の目玉はやはり有名な「乙女の像」と十和田神社であった。
十和田神社には、とてつもないパワーを感じた。今回行くことはできなかったが、
一番のパワースポットは、イタコさんも利用されると言う。人知を超えた力に感慨。
「乙女の像」には、「乙女」とは言いがたい力感を感じた。流石は高村光太郎だ。
が、同時に「何故はだか?」の疑問は拭えない。断れなかった仕事、という鬱屈もあったか、
どうも光太郎の「ヤケクソぶり」が感じられてならない。傍らにあった碑文にもそれを思う。
いやま、自分の下衆な感性のことだから、全く当てにはならないのであるが。
午前中の残りの時間は、湖周辺をしばしドライブ。上からの景観に感動。
昼は、今度は湖面からの景色を楽しもうと、「ランチクルージング」と洒落込んだ。
ただこれ、湖畔のホテルだかの社長さんが自ら船頭をしてて。貸切なのはよかったが。
その社長船頭さんのあまりの威厳に圧倒されっぱなしで。なんやろ、校長室に呼び出されて
校長先生の話を聞きながら、もそもそと二人メシを食う、という様相だった。
さらに悪いことに、せっかく社長自ら説明してくれるのだが、実は朝のガイドさんに聞いた話と
かぶってる話が多かったので… さも初めて聞いて驚いた!というフリをするのがしんどかった。
まあ普段職場で慣れてて得意、とはいえ(こら) 旅行にまで来てなんで、という感は残った。
あ、湖面からの景色と湖水は素晴らしかったですよ!とフォロー。あ、これもヨイショか。
上から下から中から、十和田湖を堪能した後、旅のもうひとつのメイン、青荷温泉に移動開始。
少し大回りして、八甲田山山麓を経由。そこは「死の行軍」の舞台。
また、途中の酢ヶ湯温泉付近では、最近火山ガスにより命を落とした人もいるそう。
おどろおどろしさにビビりつつ進む。しかしこれが文字の通り「死の行軍」への序章であるとは、
この時知る由もない二人であった! ジャジャーン!
続く(いや、たいしたことはない)
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<本日の詩>
十和田湖畔の裸像に与ふ』
         高村 光太郎
銅とスズとの合金が立ってゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立ってゐる
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪えて
立つなら幾千年でも黙って立ってろ。