さらばキムタク。

誠に残念、としか言いようがない。
御存知のように、読売巨人軍木村拓也守備走塁コーチが、帰らぬ人となった。
グラウンドで死ぬのが野球人の本懐、とは言い古された言葉ではあるが、
まさか文字通りそんなことが起こってしまうとは。その死の凄絶さに言葉を失う。
返す返すも残念であるが、今はただ、ご冥福をお祈りするより他ない。
木村拓也選手。誰もが思う、そのあまりにもインパクトのある名前。
それとは裏腹の、玄人好みのする渋さ。そのコントラストが魅力であった。
「あなたはもう、忘れたかしら、木村拓也が日ハムにいたの」とでも言おうか。
その野球人生の始まりは、ひたすら地味であった。日本ハムに捕手として入団。
しかも今ではもうなくなってしまった「ドラフト外」として、であった。
広島にやってきたのは、長冨投手とのトレードで、であった。今回あらためて
ウィキを読んで、あー、そうだったそうだった、と思い出した。
これまた渋い選手と、、、とあらためて慨嘆したものである。
そこから、言うまでもないが、日本を代表するユーティリティプレーヤーに成長。
アテネ五輪では代表を務める。そのユーティリティさが導いた代表の座、であった。
予選時の監督、長嶋氏は、彼を解説者時代から絶賛していたように記憶している。
その言葉通り、氏は彼を代表に選出。後の巨人入団にも氏の意向があったのでは。
と、これは想像にすぎないが。ともかくスーパースターも惚れ込む万能ぶりであった。
しかしその万能さが、才能というより、努力によるものであった、というのもまた凄い。
ウィキによれば、「チームで空いているポジションを探して、そこに入ろうとした」結果が
実を結んだ、ということである。また、スイッチに挑戦したのも中堅になってからである。
状況に合わせ、常に自己を改革する努力は、もって生まれた粘り強さのなせる業であろう。
それもあってか、非常に人望も厚く、チームメートとの親交は深かった、と聞く。
引退後すぐ、巨人の一軍コーチに抜擢されるなど、異例であろうが、
彼の人徳と、そしてもっている技術の豊富さをもってすれば、誰もが頷く人選であったのか。
本当に、これから、という時に、何回も言ってしまうが、惜しすぎる死、である。
いい奴ほど早く死ぬんだ、という言葉の真実を改めて見せ付けられた気がする。
ここまで、感情移入してしまうのは、野球人キムタク、人間キムタク、の魅力もそうなんだが。
自分と同じ1972年生まれだ、ということもある。これが衝撃に輪をかけてしまった。
自分が今突然、命を奪われたとしたらどうだろう。同じ年の者が死に、同じ年の者が生きている。
その生のありがたさに自分は応えているか。自分はしっかり生きているか。問い直すものである。
キムタクの逝去に唯一、意味があるとすれば、そう周りに教えてくれることであろうか。
最後にもう一回、しつこく言ってしまうが、残念すぎる、早すぎる死、である。
いやもう、今年はほんまに、いろんな人が亡くなってしまうな。
何回追悼文書いてるんやろう。