『日本語が亡びるとき』。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

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読了。
まずセンセーショナルな題名に興趣をかられ、本を手に取った。思う壺だ。
次にぱらぱらっと本をめくると、1章の見出しがあった。
アイオワの青い空の下で〈自分たちの言葉>で書く人々」 おおそうか。
これに一気に引きつけられた。なんじゃろう。なんでかいのう。(突然おじいさんに)
まずは、筆者がアイオワ大学でのIWP(International Writing Program)に
参加し、様々な国々からの作家と交流した体験談から話は始まる。
IWPと見ると、IWGPを思い出して仕方なかった。というのは蛇足。
この辺のくだりは、本当に面白く、ぐいぐい引き込まれる。
「人はなんといろいろなところで書いているのだろう…」と筆者とともに慨嘆。
或いは、モンゴル人の壮年と、リトアニア人の若者が、隣に並んでいる理由。
両国の国民と、政治と、そして言語をとりまく歴史の数奇。またこの両国のみならず、
様々な国の持つ、様々な状況を知る。他を知ることは、己を知ることと見つけたり。
自分が日本人で日本に住み日本語を話していることの奇跡を再認識した。
他の書評などを見るとこの辺の、ともすると情緒的な部分が残念、とする向きもあったが。
自分にとってはむしろ、この辺の方が面白かった。また文章も美しかった。
アイオワの青い空の下、街路樹の葉が少しずつ黄ばんでいくなかを…」という表現が
リフレインの如く何度も何度も現れる。これは印象深い美しい光景であっただろうのと同時に、
徐々に変わる世界を全て包む言語=英語の出現を象徴させていたのかも。これ、深読みか。
一転、この導入部を過ぎると、なかなか読みにくくなっている。
言語を〈普遍語〉〈現地語〉〈国語〉とカテゴライズし、それをもとに言語の進化を辿る
あたりは、情報としては面白かったが。自分は言語学の素養がないので、批判する立場にない。
ただ、最終部の英語教育についての筆者の見解には、英語に携わる者のハシクレとして頷ける。
「この先五十年、百年、最も必要になるのは、〈普遍語〉を『読む』能力である…
 すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらない…
 日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきである…」
この辺は、自分の問題意識に対し、ど真ん中ストライクである。
ただ、筆者の言う、日本語が亡びる理由=〈叡智を求める人〉が英語に吸収されてしまう、
というのはどうかと思うなあ。ひとつは、ほんまに賢い人は両方できると思うから。
もうひとつは、日本語が亡びるのが危惧されるほど、英語ができるように多くの人ははならん、
ということ。それは、日本人の大半が、痛々しいほど感じているのでは。自分もそうだ。
日本語が亡びるとすれば、これも筆者の言ってることかも知れんが、日本が亡びるか、
或いは、日本人みんながあほになってしまうか、だと思う。その可能性は十二分にある。
筆者は最後「自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証し」とあくまで悲観的に
筆を置いているが、人間が伸び行きたいという姿勢を持っているのならば、
言語の多様性は保たれるのではないか。それが「バベルの塔」の真の教えなのかもしれない。
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<本日の言葉>
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より…
 日本より頭の中のほうが広いでせう。
 囚はれちゃ駄目だ。いくら日本の為を思つたつて贔屓の引倒しになる許(ばかり)だ。」
              
               夏目 漱石 『三四郎』 より