『草枕』/「竹影階を掃って塵動ぜず」

草枕 (新潮文庫)

草枕 (新潮文庫)

ようやっと、読了。しんどかっただよ。
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「山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
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あまりにも有名な冒頭だけは、子供の頃から知っていたが。この本も他の例に漏れず
「三行目から読んでねえけどな」という本であった。もう少し我慢して一頁読むと、こうくる。
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「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、
束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。
あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。」
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これは大分前に一度引用した。さすが漱石、と心に響くものがあったので。
しかし心に響いたところで満足し、二頁目から読むのをやめてしまっていた。とほほ。
いやこれではいかん、と一念発起し、今回読み通すに至ったのであるが。むむう。
筋的にはほとんど盛り上がらないし、主人公もほとんど躍動しない。ま、当の漱石が、そういうふうに
書こうと意図して書いたのだろうから、当たり前と言えば当たり前なんだが。
なんかこう、小説というより、漱石の芸術・文化・文学・文明に対する「熱い語り」だなこれは。
しかし毎度ながら、漱石の途方もない教養の高さには舌を巻くばかり。つうか、自分のアタマでは、
高いのかなんなんだかさえようわからんかったのだが。悔しい限りだ。そんな中でも特に印象に残ったのは、
最後の方の「文明論」である。少し長いが引用する。
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「汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。
情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に
浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。
汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、
あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは
寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、
これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅(ほしいまま)に
したものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。憐むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に
噛みついて咆哮している。文明は個人に自由を与えて虎のごとく猛からしめたる後、これを檻穽の内に投げ込んで、
天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると
同様な平和である。檻の鉄棒が一本でも抜けたら――世はめちゃめちゃになる。
第二の仏蘭西革命はこの時に起るのであろう。」
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別に汽車が好きでこの箇所を引用したわけではない(オタク)
百年以上たった現在二十一世紀にも、なお通用する、痛切な文明批評ではないかと。かりそめの平和、かりそめの繁栄のまま、
我々は汽車に乗って、百年きてしまった。そして今なお、それにしがみついている。行く先も知らないままに。
と、わかったようなことを言っているが、実は、この辺しか理解できなかったから、ここ書いたの。ぐすん。
良く見たらこの文章、冒頭とラストだけ抜き書きし、丸写ししただけじゃないか。
読書感想文をコピペしようと迷い込んだ、いたいけな少年少女よ。こんな感想文提出してはいかんぞ。
それ以前に、『草枕』は題材として大変だぞ。素人におすすめできない、と注意しておく。(偉そう)
難しくてほとんど理解はできなかったが、それでも、読んでよかった点はあった。
次読む本が簡単に感じるのであるよ。おおそうか。
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<本日の言葉>
「竹影階を掃って塵動ぜず、月潭底を穿って水に痕無し」


竹の影が階段を掃くように動いても、階段の塵は動かない。
月が水底に映る時も、水そのものには一切痕跡をとどめない。
不思議な魅力を帯びた言葉。現代人の生き方にもヒントになるのでは、と。
別の本でこの言葉を見て、同じ日に『草枕』でまた見たのでびっくりした。
どなたからはしらねど、自分に向けられたメッセージであるのだろうなあ、と感慨。