スダチをたずねて三千米(メートル)。

はるかご近所を ひとつかみの雲が 
あてもなくさまよい とんでゆく
スダチもなくカボスもなく 何もかけられはしない
けれどムーラン おまえはきたんだ 
アンデスにつづく この道を  (どこ行くねん)
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実家から「マツタケをもらってので取りに来い」との連絡。
最近帰ってるのは物もらいにいく時だけだわ、とぷち反省。
敗北感をひしひしと感じるほど立派なのを(何故)三本ゲット。
つうか、もっと早ければ、BBQで使えたのに残念… と、
もらっといて文句は言えないわけだが。
また入手経路の不透明さに、ほの暗い深淵を見ないでもないのだが、
ここは善意の第三者を決め込むことにして。(大袈裟な)
一本はごはんにして、二本は焼いてさっとスダチをかけて…と
青写真を描いていた。と、いざ調理にかかった文化の日の昼。
スダチを切らしていた。しかし、焼き物にスダチがなければ、
画竜点睛を欠く、と感じたゆえ。スダチだけ求めにヨメと出かけた。
ところが、何軒かまわったが、ないない、どこにもないのである。
端境期なのか、先日の台風の影響か、先物買いの対象にでもなったか。
あるいは近所でサンマパーティー(?)でもあるのか。全然ないのだ。
いやはや、我々スーパーコンビニ世代の欠点というか。
店に行けば何でもある、手に入る、という錯覚に陥っているのでは。
最後に、だめもとで、あるスーパーにテナントとして入っている八百屋へ。
そこがダメなら、断腸の思いでレモンにしようと。が、みたとこ無さそう。
思い切って「あのう…、スダチはないんですか?」とヨメが尋ねた。
八百屋の大将は、「ごめんー、売り切れてもうたわー、でも少し待ってー」
と、いきなり隣の魚屋に入って、奥でなんかサバいてはるところの、
棚の上のハコに手を突っ込んで。何かを引っつかむと戻ってきた。
それは、スダチであった。見事に真っ黄色であったが、たしかにスダチ
「黄色いけど、一緒一緒、まだ使えるよー」と、二つ持たせてくれた。
財布をまさぐっていたが、「いいよいいよー、おまけだよー」と。
で、呆然とするうち、それだけ持って帰ってきてしまった。
しまった。何か買って帰ればよかった。またの機会には是非…。
しかし、このゆるやかさに、なんとも心をあたためられた。
最近のスーパーやコンビニでは、店員と客が目を合わせることもなく
機械的に買い物がなされる。挨拶があってもそれは完全マニュアルの世界だ。
大将との今日の触れ合いは、前時代的だがかつ同時に、新鮮な感じがした。
経済活動は元来、こういう人と人との触れ合いではなかったか。
規模の経済と規格化の名の下、こういう「あたたかい非効率」を我々は
捨ててしまっていたのでは、と。ちょうどこの、黄色いスダチのように。
そういう体験があって、この日のマツタケには妙味が加えられた気がする。
それ以前に、マツタケって、スダチをかけて食うものなのか?