複合的悲劇。

先日の大雪山トムラウシ岳での遭難事故は凄惨を極めていた。
本格的ではないにしろ、時々トレッキングに行く者として心を痛めている。
亡くなられた方には、その逝去を悼み謹んでご冥福をお祈りしたい。
その前提に立った上での文章であることを、はじめにおことわりしたい。
さてこういう、いたましい事故が起こるといつもその後に続く感じがするが、
マスコミや世間で「悪者探し」が始まる。たしかに原因を究明し事実を確認する
ことはやらねばならぬことであるし、責任の所在が明らかになるならば、
それを明らかにするのも大事である。
ただ、「お前が悪い!」「人間としてどうか!」と声を張り上げる前に、
もう少し情報を確認し、想像力を働かせてみることも大事ではないだろうか。
「先に」「大きな」声を出した方が勝ちであるこの世の中、難しいかもしれないが。
ガイドが落伍者を置き去りにしたであるとか、メンバーは一度中止を呼びかけたとか、
会社はガイドからの中止判断を待っていただとか、ガイドを糾弾する報道が多い。
その反動だろうか、メンバーの自己責任を問う声や、会社の管理責任を問う声も
諸所で見受けられる。それらを俯瞰し「皆が責任をたらい回しにしている!」と
上からの声がかぶさる。とにかく誰かを悪者にし、図式を簡略にしたいようである。
結局、いろんな原因や責任が重なり合って、今回の悲劇に繋がったわけで。
これからいろんな調査や報告があって、いろんなことが分かってくるのだろうが。
本当のところは、実際にその場に身を置いた人でないとわからない部分も多いだろうし。
いや、その場に身を置いた人ですら、他の人の置かれている状況はわからないだろう。
今後、何年かの時間を経て裁判等で明らかになって行く問題が多いと思う。
それを、少ない情報量で、これが黒これが白とレッテルを張り、情報を「消費」してゆく
のは建設的な姿勢とは言いかねるのではないだろうか。
少なくとも、ガイドの声があまり聞こえない今、責任問題を云々は早いのではなかろうか。
ま、こんな愚図愚図考えてしまう私は、マスコミ適性があまりないのかもしれない。
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<本日の言葉>
「七たび尋ねて人を疑え」

最近の目まぐるしく変化する世の中、尋ねてる間に状況がかわっちまうんかな。