神のみわざが現れるため。

エスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、
だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
エスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が
犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである…」
                <ヨハネによる福音書 第9章1-3>
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障害や病気に悩む人に対して、必ずといっていいほど引用される
聖書の部分である。私も、何度聞き、また見たか数え切れないほどである。
「神のみわざが現れるため」「神のみわざが現れるため」
しかし、何度読んでもようわからん。ストンと腑に落ちることがないのである。
これを理解することが、私のミッション、私が生まれた意味なのかもしれない。
理解できたとき「神のみわざが現れた」、と心から確信できるのかもしれない。
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私は何年かにいっぺん、全てをほおりだしてひっくり返り蹲ってしまう。
そのこと自体はこの日記にもちょくちょく書いている。最近は奇数年に出る規則性がある。
出るとすれば今年だ、用心せねば、と思っていたが、すっかり大丈夫と侮っていた。
油断大敵。やはり出てしまった。今回は、忘れもしない6月13日であった。
その何日か前に、身辺が非常にバタバタしていて、ヨメなどにも注意を受けてはいたのだが。
どうしても病気のことが自分なりに受け入れられていないのか、強がり突っ張ってしまって。
対策を講じることを拒んでいた。今回その点を猛省するものである。次頑張る。(次?)
奇しくもこの日はかの三沢選手の亡くなった日であった。その死を悼む元気すらなかった
自分にすごく腹がたつ。死を悼む元気、てのもなんか逆説的な表現であるが。
こういう一連の自分には一応、「解離性障害」という病名がついている。
横綱がサッカーやって叱られたあとだったかに、この病名がついたのをご記憶の方もいるかと。
ちなみに私はそっちの横綱ではなく、むしろこっちの横綱であるのではあるが、てどっちなんだ。
大きなストレスがかかった時に、そこから逃れようとするあまり、「スイッチ」が入るのである。
好意的に見ると生体防御反応の一環、それが効き過ぎてしまった、ということになるのだろうが。
悪意的に見ると、都合が悪くなると逃げ出す、というふうにもとられてまず間違いはない。
で「スイッチ」の入り方であるが。その都度で様々なのであるが、よくあるパターンは
「人類滅亡へのシナリオ」だのむしろ「我々は既に死んでいる」だの「我々が我々であることの奇跡」
だの「人間から宇宙から微生物から全生物全物質がみんな幸せになるための公式を編み出す」だの、
しんどいんやったら頭を休めたらええのに、なんでそんな難しいことを考えるのか、と思う。
まあおそらく「私は休んでいるわけでなくこんなすごいこと考えているので許してくださいスイッチ」(長)
というところなのだろうが。
ちなみに最後のは結論が出た気がする。おおー。しかしそれを思い出せないのである。あじゃ。
こうして書いてみると、病気の自分のほうがむしろ、健康な自分よりも、人生の難問に逃げずに
取り組んでいる気がする。方法論はどうあれ、ではあるが。その点はむしろ誇りに思えてきた。
ともかく、最近繰り返し書いているが、自分は自分のこういう部分を許せず、隠し、抑え込もうとしてきた。
しかし、こういう部分も自分の要素として理解し、乗り越えるんじゃなくてうまく付き合っていければ、
なかなかそれで面白いのではないだろうか。付き合い方が分かれば突然周りに迷惑掛けることもなくなろう。
今回も実家のごたごた、ということで原因はハッキリしてるのね。これまでもヨメの入院やら大きな買い物やら。
そいうイベントがあった時である。その際「くるかも」と恐怖するより「いらっしゃい」と準備する。
その付き合いの面白さを、他者と共有できれば、もっと世界もひろがっていくのではないか、と。
ま、都合の言い方だけど。
む、こういうんが「神のみわざ」ということなのだろか。少し近づいてきたか。いや違うか。
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すみません。今日は少し茶化したような口調で或いは不快を感じられた方もいらっしゃるかもしれませんが。
敢えて意図的に明るいタッチで書かせていただきました。どうぞご容赦ください。