『吾輩は猫である』。

吾輩は猫である (角川文庫)

吾輩は猫である (角川文庫)

時々引用していたので、或いは読者の方には「最近カブれてるな」と感づかれていたかも。
先日ようやっと読了した。疲れた。1ページに文字大杉。また注釈と首っ引きで。難。
前にも書いたかもしれないが、この『ワガネコ』こそ、日本の読書嫌いクンたちを今なお
増殖させている元凶なのかもしれない。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」という
あまりにも知られすぎたフレーズに対し、「二行目から覚えてない」人は数限り無いだろう。
題名が面白そうで、しかも簡単そうなので、まずこれから手を出してしまうということの愚かさよ。
筆者も昔「児童文学全集」でトライしたが見事挫折。猫の登場場面のみ拾い読みするにとどまった。
怪しいオッサンがダラダラ薀蓄を垂れたり椎茸や山芋を食ったり食わなかったり。どこが面白いのか、と。
当時好きだった漫画『じゃりん子チエ』と同じく、猫が人間社会に混じって躍動するドタバタ小説。
それを期待して読んだが。猫はたまに少し動くが、ほとんど躍動しない。そしてイササカ嫌味たらしい。
とにかく不満で仕方なかった。不満をぶつけようにも「おい、やいこらてめえ… 名前もねえ!」だし。
話は全然ヨレるが、最近深夜にケーブルで『じゃりん子チエ』をやってて、密かにハマッている。
今見ると、非常に新鮮で。昔は面白いだけで観てたが、こんなに奥が深かったのかと感動を改める。
それはまた別に取り上げるとして。話を元に戻す。
これも前に書いたかもだが、『ワガネコ』に関して中学の時の国語の先生が、「読むにはとてつもない
教養が必要。素人におすすめできない。中学生には無理。」と言っていたのを思い出す。(一部脚色)
20年の時を経て改めて読むと、この飛ばしてた、ダラダラと続く薀蓄。ここにこそ意味があったのだな、と。
といって、今もわからないことが多すぎるのであるが。明治エリートの知識レベルに今更舌を巻く。
またそれでいて、溢れる俗物根性。嘘でたらめ。実にも毒にもならぬ理論。拝金主義に老荘思想
なんやらこってりした食材がごった煮となっている様相である。これぞ近代社会の縮図ではないだろか。
特に当時はほんのちょっと前まで、刀にちょんまげの人が威張っていた状態から、雪崩を打って変わった時代だ。
その変化を前に、いろんな価値観が噴出し、何が正しく何が偉いのか収拾がつかない状態となった。
そこで右往左往する、いやしてることすらわからぬ人間の姿。それを他人事のように眺め知ったように
論評する匿名の個人。名を知られた個性あるキャラクターに、名無しの主人公。超えられぬ壁に、時たまの交錯。
現代に通じるとも言えるが、明治期の狼狽のさまは、現代のよりもはるかにすさまじいものだったろう。
えー。なるべくネタバレは避けたいのだが。これだけは言わせて欲しい。
最後の大激論と、そしてラストのラスト。そういうのも頭に置きながら読んだら、なんか泣いてしまった。
いやはや、『ワガネコ』で泣いた人てのも珍しいと思うのだが。結局そうするしかないのか、みたいな。
教科書どおりの『文明論』的解釈とはズレるが。私はひととおり笑った後、人間の悲しさをみた、と。
毎度使ってしまうセリフだが、おもしろうてやがてかなしき、であるな。
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<本日の言葉>
「吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。
 こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。」


ほっとけ。