マザー・ハラスメント。

今朝新聞でこの見出しを見たときは一瞬、
「自我が確立していない母親によって子供・家族・社会が被る苦痛」
と頭に浮かんでしまったのは何故だろうか、と苦笑。まあ日ごろ…(以下自粛)
が、よく読むと違った。「子連れの母親に向けられる厳しい目」だそう。
たとえば。子供を預けて外に出たりすると「子供とダンナをほっておいて…」
と言われるとか。或いは電車などに子連れで乗ると「親だろ!黙らせろ!」と
怒鳴られる、とか。そんな時に母親が感じる肩身の狭い思い、のことだそう。
なるほど納得至極、である。記事によると、大体「加害者」となるのは70年代に
子育てをした「義母世代」に多く、彼らは「完璧な子育てこそ女のつとめ」という
価値観を持っている、と。また、「最近の母親は甘えている」という思い込み。
それらがあいまって、どうしても最近の母子に対する目が厳しくなってしまう、と。
自分に子供がいないので、偉そうなことを言えた義理ではないのであるが。
それでも妹の苦労とか見ていると、今の母親の気持ちもわからないではない。
頑張ってはる人は頑張ってはる。そこは尊重すべきではないだろうか、と。
まあ、電車で子供が騒いでいるのに横でニヤニヤメールを打つバカ母とかを
見ていると、なんだかなあ、と思うことはあるが。その両者は分けて考えないと。
なんかようわからんのだが、この社会は、子供を大事にしてるのかしてないのか
さっぱりわからんなあ。子供がないならないで、すごい刺すような目を向ける。
そんであったらあったで、また刺すような目、ときたもんだ。自分はそんなに
完璧なのか、完璧にやってきたのか、と小一時間ほど問い詰めたい気がするが。
結局、自分のなかの「あるべき論」が全てなんだろなあ「加害者」にとっては。
それと「イエ」と「社会」との相克が、そこにからんでくるんであろうが。
しかし「イエ」なるものが出来たのは、明治以降という話だし(よほど名家以外は)。
今の「イエ」制度ができたのは、戦後になってからであるし。その「イエ」と
「社会」が相克しだしたのは、すなわち「イエ」と「社会」が分離しだしたのは、
高度経済成長期以降のことだと思うのだが。そんな中で、今一度自分たちの
「あるべき論」というのが、本当に絶対性を持ったものなのかを客観的に問うてほしい。
それに立脚した議論ならばいくらでもつきあうのだが。脳を通さずに話す人、
というのも残念ながら世の中にはいるもので… むずかしいね。
その理想に従い、今の「イエ」と「社会」がうまくいっているのなら頭を下げるが、
ちっともうまくいってないやんか、、、という気もするのであるが。
思わず、我田引水に(用法は適切?)あることないこと書いてしまったが。
「他者」への理解。自己だけでなく全体を俯瞰すること。それがキーワードである気が。
私が最初にした「勘違い」のケースも、そこに繋がってゆくのかもしれない。
最後に、この記事を書いた男性記者が「自分だけで子供と歩いていると、警察から質問された」
と結んでいるが。誇張はあるのかもしれないけど、このあちゃあ、という笑い話。
なんか、真顔で頷けるものもあるんである。自分が平日の昼間にスーパーで買い物とかすると、
万引きと間違われないかとドキドキする。あるいは同じく平日の昼間に散歩などすると、
これどうみても不審者やん、と自分でも思ってしまう。あ、被害妄想ですかそうですか。
しかし、平日の昼間の街を歩くと、ほんま女子供と老人しかいないもんね。
ベッドタウンに住んでいるからかもしれないんけど。あの第二次世界大戦時、男は戦争にとられ、
のこされた女が銃後を守ったと言うが。戦後60と余年たって、日本はまだ戦争中なんだなあ、と。
と、つい話が大きくなりすぎてしまったが。
ま、ごちゃごちゃごちゃと、こんなこと考えているマイナー男も世の中にはいるってことで。
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<本日の言葉>
「恐れ入谷の鬼子母神



鬼子母を神にしたのは、お釈迦様の御慈悲である。