『おくりびと』。

おくりびと』が、オスカーに輝く偉業達成。
日本にとっては久しぶりの、いいニュースとはなった。喜びに湧く国民。
重い映画の内容と、受賞の歓喜、ともすると狂騒とのコントラストが面白い。
おっと意地悪く見ると、また皮肉のひとつも言ってしまうが。今日は素直に素直に。
ま、ほんとは誰もが重い重い人生を抱えている一方、一日一日喜んだり悲しんだり
怒ったりゆったりしたりしながら暮らしている。その縮図を見ている思いがする。
不勉強にして、まだ映画も観ていなければ原作も読んではいないので、あまり
突っ込んだことはここでは書けないのであるが。ごくごく表層的な感想を言うと。
メメント・モリ」(=死を想え)という言葉を昨今多く目にする機会がある。
その流れと、今回の『おくりびと』の受賞。根底で繋がるものがあるのであろう。
何かにつけて閉塞感のある今日この頃である。今まで、或いは今もまだなお、
人間は、止まったら死ぬ回遊魚の如く、或いは止まったら死ぬ寛平じいさんの如く、
ただ前進するために前進してきた(じいさんは前進というか、ランダムだが)
それは将来への無限の希望を活力にしてきたとも言える半面、いつかは必ず終りが来る、
そのことの恐怖を忘れるため、ではなかったか。バブルの狂騒がその典型であったろう。
繰り返しになるが、今はそんな狂騒が嘘のような、閉塞した世の中である。
確かに、苦しい時代ではある。しかし、真に大切なものに気づかせてくれる機会だ、
と前向きにとれば、とれないことはないのかもしれない。その意味ではいい時代、なのかも。
個人レベルであれ、あるいはもっと大きな、国家レベル、いや全人類レベルであれ、
「終わり」に思いを馳せ、そこから逆算して今を組み立ててゆく。その発想の転換
解決できることが多いのではなかろうか。ともかく今の苦しみの多くは「無限の成長」
という前提が原因なのかもしれない。無限は無限の希望であると同時に、無限の絶望である。
逆説的かもしれないが、実は限界こそ救い、限界こそ解放、限界こそ快楽であるのかもしれない。
というのは私のMっ気が言わせるセリフなのかもしれないが(あなた何言ってんの)
限界を知っていれば、その限界を自分で強制的に引くことの愚かさもわかろうというものだ。
なんか今思いついたのだが、真っ白なキャンバスに、なんか形を描く。
それが実は死というものではないのだろうか、と。すなわち死こそ形を作り、死こそ生を生み出す、と。
おお、俺、今悟ったかもしれん。いやそれは、お坊さんに謝れ、てなもんだろうが(中山功太のパクリ)
しかしそうやって悟った横には、手付かずの採点の山が積んであるし、昼飯なにしよかな、とも考えるし、
偉そうなこと言ってて、キャンプ中継など見てるし、電車でねえちゃんの足とかに目が行ってしまうし。
ま悟ったり悟らなかったり、思い出したり忘れたり、で日々が過ぎてゆく。それが人生ってもんか。
てそんなんでまとめていいのか?
最後にどうでもいいが、人生と言えば。前の職場のとき、なんか上司のオッサンに気に入られ、
二人でドロドロになるまで酔ったことをまた思い出した。中島らもにあった場面と全く同じで笑った記憶。
(目すわってる上司)「ええか〜〜、ムーラン。人生。人生なんだよ〜〜。」
(同じく目すわってるム)「そうっすね〜〜、人生っすね〜〜。」
(以後、際限なくこれを繰り返す)
あれ、あれだけ酔ってた上司、覚えてるんやろうか。覚えてないんやったら、上司にとっては、
あの場面はなかった、ちうことか。いや、俺もいまいち自信がない。時々あれは夢だったのでは、と思うし。
上司の「人生」と私の「人生」が交錯した瞬間。それも、私が死ぬと同時に消えるのだろうか。
いやそもそももう消えかけているのか。それ以前に最初からなかったのか。不思議だ、実に不思議だ。
あまりの不思議さに便意を催した。トイレいってこよ。これぞ私が世の中に何らかの物質を生み出せる
唯一の行為なんかもしれない。おお、これぞ『おくりびと』つうことで。めでたく話は繋がったか。
む。すごく下劣になってしまった。ファンの皆様申し訳ない。我が品性を猛省。
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<本日の言葉>
ずっと前にも書いたが、再び。水上勉『働くことと生きること』より。
人体の脂埃と灰を、コスモス畑に捨てにゆく火葬場の老職員のセリフ。
――
「この山の台地のコスモスは、わしがここにきてからふえたもんで、人の灰と脂が肥やしになりました。
 さて、何百坪のコスモス畑になりましょうかな。花は、秋がくると風で飛んで、そこらじゅうにタネを
 まくんで、こんなにひろがりました。コスモスというもんは、あれで、一つ一つ眺めてゆきますと、
 色もつやもちがって、ちょうど、この世の人間がそれぞれちがうようなもんでございますな。
 あれは、人の灰が育てたのだから、人の顔に違いありませんや」 
――
「わしがコスモスの花に変身する人間をいとおしいと思いますのは、生きとる人間が、はなはだ、
 差別ずきで、作業場(ヤキバ)の竈も、特、並、と階級をつけております、うしろへゆけば、
 かわりもない機関車のケツみたいな焚き口が三つならんでおるだけなのに、表だけは、
 ローソク立てやら、扉のかざりの奢りに差をつけてよろこんでおるのが、おかしいような…
 おろかしいような… そうして生きておった人も、焼かれると平等にコスモスになるからです」