バベル。

「全地は同じ発音、同じ言葉であった。…
 彼らはまた言った、『さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。
 そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう』。
 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、…
 『さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、
 互に言葉が通じないようにしよう』。…
 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を
 乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。…」
                     (創世記第11章・1〜9節抜粋)
で、あの映画である。日曜日に遅ればせながら観てきた。
・・・・・
要約すると、「のぞきはやめましょう」という映画ですな。
以上、講評おわり。








いやま、それは冗談として(当たり前だ)
なんつかな。ヨメにも言ったんだが。「皿鉢料理」てな感じで。
あまりにも盛り沢山で、どっから手をつけてよいかわからないのだが。
あちこちつまみ食いしながら、少しでも核心に近づいてみたい。
ひょんなことからえらいことになってしまった、ということ。
文明とは何か、文化とは何か、それらがぶつかるとき、何がおこるか。
極限に置かれた時に人間はどうするのか、人間の本質は何か。
現在のアメリカ主導「グローバル社会」は人間は幸せにするのか。
題名が示すとおりの、コミュニケーションが通わない、バラバラの世界。
それを再び繋ぎ合わせる手段はあるのか、またあるとすればそれは何か。
そんなところが大きなテーマであり、他の方のレビューを見ていても、
この辺が強調されているが。それに加えて、私なりの意見を書くとすると。
登場人物の全員が、大なり小なり、「悪いこと」をしている。
ロッコの弟しかり(のぞきはダメ)、ブラピ&妻しかり、ベビーシッターしかり。
暴走野郎しかり(ヨメの心を奪った罪もあるぜ)、菊池・役所しかり。
しかし、それが生む「歪」の現れ方が、文字通り歪んでいるのだ。
で、比較的不幸になっていない人もいれば、めっさ不幸になっている人もいる、と。
おお、今気づいたが、歪=不正だよおい(誰に呼びかけ)。洒落てる場合じゃあない。
そこから先をどうとるか、だな。歪の現れ方が不公平だ、不条理だ、と叫ぶのもひとつ。
他方、みんなが加害者で、みんなが被害者である。みんなが悪く、みんなが悲しい。
そうとるのもひとつ。いずれにせよ、重いメッセージで、人間の全てが
重く受け止めなければならないのではないか。答えは、、、なんだろ。出ないな、たぶん。
・・・・・
この画面から迸る重い重いメッセージ。それを前にして、斜め前の中学生は、
上映中にずーーーーーーーーーーーーーっとゲームしとった。光が漏れて気になった以上に、
ああ、伝わってない、全く伝わってない、これが人間だ、という諦観が大きかった。
どんなに悲しい場面より、その左下にうごめく光、それが一番悲しかった。
・・・・・
帰り際にそいつにヒトコト言うてしまった。んー。他の映画だったら絶対無視しとったが。
この映画を観た後だけに、なんか、言わんといかんような気持ちになった。
ああ、あと。そいつが弱そうだったから言うたのもある。
怖そうだったら絶対言わんかったやろお前、てゆう闇の声に苦しめられている。
コミュニケーションはかくも人間を苦しめるのか。
しかしコミュニケーションなしでは人間は生きられない。何たる矛盾。