ソチオリンピック・開幕。

越後屋…、そちも悪よのう…
日本のおそらく一千万人以上のオッサンが、会社で、家庭で口にし、
ある時は愛想笑いを、ある時は失笑を、ある時はスルーをされているであろう、
そんなセリフとともに、我が五輪も開幕しましたよ。
(「もうこれ以上、越後屋言うたら離婚」とヨメに言われてもうた)
そんなただのオッサンの自分は、「レジェンド」葛西紀明選手と同じ年である。
同じ年でもえらい違いだ。恥じ入るばかりだ。
開会式。率直に、北京五輪と同じく「国威発揚色」が強いなあと思った。
各国の地図を会場に写し、その真ん中から選手が登場するという工夫について、
「日本の時、北方領土どうすんかな?」とドキドキしながら見てはいたが、
雲に隠れてた。うまいこと切り抜けたなあ、うまいなあ、と感心したもの。
あとやはり、例の「四輪事件」である。バンクーバーで柱が立たなかったのは、
閉会式の工夫によって「洒落」で一件落着したが、どうもかの国においては、
洒落にならない気がして怖い。いや偏見でものを言うたらいかんのやけど。
いやあながち偏見でもないのは、なんとかの国内においては、瞬間的操作により、
ちゃんと「五輪」の映像を流したというではないか。むう、なんかなあ、と思う。
人間だから失敗することもある。それは仕方ない。ただ、失敗したときにどうするか。
その時に人間の正体が出るのだと思う。ああ、この国はこういう時に、
「なかったこと」にしようとすんだなあ、というのが強烈に印象に残った。
て、人のこと言えるんだろうか我が国は、というのは、また別の話。
でもま、開会式など本来、前菜にすぎないのであって。メインは選手である。
と、切り替えようとしたところが、またボヤキ節になってしまうが。
五輪ねえ、楽しみで興奮させられるんは確かだけど。なんで日本人は、いや
日本のテレビは、と言うべきなんかな、ともかく五輪となるといつも、
メダルメダルメダルメダルメダルメダルメダルメダルメダルメダル言うんかな。
おお、メダルあんまり書いてたら、ゲシュタルト崩壊を起こしてきたぞ。
4位、とか8位、やと、あからさまにガッカリ感たっぷりとなってしまうし。
世界の4位、8位がいかにすごいことか、それはもっと賞賛されるべきではないか。
前にも何回も書いたことだけど、そうならないのは、テレビはじめ日本人が、
スポーツを「消費」するだけのものと、とらえているからでないか。
といって自分も例外ではなかった。ただ、自分で走るようになって、マラソンなどの
見方が変わった。テレビはおおむね先頭集団しか映さないけど。後方で埋もれている、
そのように見える、そして今まではそう見ていた人も、めちゃめちゃ速いんよ実は。
猫ひろし」とか、いまだにイロモノのように見る人もいるけど、自分からしたら、
フルを2時間30分で走るなんて神の領域である。と、失礼。話が毎度よれてしまうが。
ええと、なんやたっけ。メダルやね。だから上村愛子選手、残念だった。確かに。
彼女がメダルを目指して、血の滲む努力を尽くしてきたのはわかる。
ただ、彼女の長い長い16年が、それがちょっと他の選手がミスるかミスらないかとか、
採点の具合がどうこうとか、そんなことで否定されるわけは決して、決してない。
4位は世界の4位であるし、実質の滑りは十分それ以上と言ってもよかったらしいし、
彼女も自分の最高の滑りができたというし。是非、胸を張って帰ってきてほしい。
7、6、5、4、4。最後の一段を「上がれなかった」のではない。
そこが最高の極みであったのだ。最後に、長野の頃から大好きな、上村愛子選手に、
以下の言葉を贈りたい。同情とかでは決してない。心から尊敬している。
その言葉とは、
*****
<本日の言葉>
越後屋…、そちも悪よのう…」
*****
あ、間違えました(これで離婚やな)。本当はこれ。
<本日の言葉>
「人の価値は何を成したかではなく、何を成そうとしたかである」 山本周五郎