『新・平家物語』。

新・平家物語(十六) (吉川英治歴史時代文庫)

新・平家物語(十六) (吉川英治歴史時代文庫)

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祇園マハラジャの成れの果て
社業無常の響きあり
沙羅樹のパッケージの色
嬢者必衰の理をあらわす…

とまあ、一部の元不良学生現中年以外にはわからぬネタはさておき。全十六巻、ついに読破した。
7〜8年前、ボスが無理やり最初の数巻を貸してくれたのだが、その当時の自分はまだ
読書に再び目覚める前で、なかなか読むのがしんどかったのと、ボスに感想など述べねばならぬ
プレッシャーとかで次第に手に取ることがなくなってしまい。気づいたら、永久に借りていた(ジャイアンか)。
で、2〜3年前、ボスが蔵書の整理をしたらしく、「好きなのを持っていきなさい」と職場に
たくさん本を持ってきた中に、この『新・平家物語』の続きが全てあった。こらいかん、と思い。
クビ覚悟でびびりながら、「すみません長々とお借りしてしまい…、今更ですがお返しします…」
と平に謝り、内心ではこれで解放されるなと思っていたところ。ああ、あれすごくよかったわよねー、
特にあーで、あーで、あーなって、ああなったところや、こーでこーでこーなったとことか…(数十分)
あなた読んだ? 何、読んでない? 少し読んだんだけど、て、じゃあ全部読んだらいいじゃないのー
「全部あるから」是非持っていきなさいよーと、話が噛みあわないうちに、所有権が移転してしまった。
若き正義感を奮い「いや私は借りパクしてたのです!」と高らかに再宣言するほど、私は若くなかった…
それで安心してしまったのか、またしばらく放置してしまっていた。ただ、去年の大河が『平清盛
であったこともあり、これを機会に読んでみるかあ、と思い立った。読んだ最初の数巻も、すっかり
内容は忘れてしまったので、イチから読み直した。初めのうちは「大河」と並行していたので、
それなりに楽しかったのではあるが、そのうち「大河」がご存知のように残念なことになってしまい。
それとともに、また読む速度も遅くなってしまったが。他の本とも並行しながら、細々と、ついに。
さすがの大長編だけあり、扱っている時代の幅も非常に広いので、前半の清盛から頼朝、義仲、義経へと
「主人公」も二転三転する。それがあたかも、『平家物語』と言えば必ず教科書的に取り上げられる
「無常観」を如実に表しているような気がする。ただ、この『新・平家―』はそういった万物流転の
空しさと並行して、「変わらぬ大切なもの」を説いていて、それが「本家」から大きく違う部分であり、
魅力であると思う。作者・吉川英治は、「阿倍麻鳥」という(おそらく)架空の、全くの庶民でかつ
武士も貴族もない、全く市井人の人情の論理で動く人物を登場させた。清盛・頼朝・義仲・義経
彼はその多くを見、彼らの全人生を俯瞰し、そして誰よりも長生きする。まさにこの物語の
真の主人公とも言えよう。本当の歴史ファンからすれば邪道なのかもしれないが、自分は嫌いではない。
王朝だ覇権だなんだかんだ言っても、いつも影響され右往左往させられるのは庶民であり、同時に、
その中で生き抜き人間として大切なものを守っていくのも庶民である。これぞ吉川氏が本作を書いた
動機であり我々に伝えるメッセージなのかもしれない。頼朝に、義経には皆がなれるわけではないし、
なったところで、その人が幸せになるかはわからない。一方、麻鳥には誰もがなれる可能性があるし、
そこには人としての正しい生き方がある気がする。無常の中での、人間のあり方がそこにある。
変わっていく世の中で、変わらぬものを大切に。
そう、そう思って自分は、今だに80年代90年代のんを選ぶわけよ。て何がや、ちうねんな(注)。
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<本日の言葉>
「―そして夫婦とも、こんなにまでつい生きて来て、このような春の日に会おうとは。
 絶対の座と見えた院の高位高官やら、一時の木曾殿やら、平家源氏の名だたる人びとも、
 みな有明けの小糠星のように、消え果ててしまったのに、無力な一組の夫婦が、かえって
 無事でいるなどは、何か、不思議でならない気がする。
 『よくよく、わたしは倖せ者だったのだ。これまで、世に見て来たどんな栄花の中の
  お人よりも。…また、どんなに気高く生まれついた御容貌よしの女子たちより』」
                      本作より
(注:カラオケの曲です!!)