『それでも人生にイエスと言う』。

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

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難解なところ、なんとか読了。フランクル、断片的には知っていたが、
実際著書に取り組んだのは初めてだった。頭をぶんなぐられるほどの衝撃。
どことっても至言に溢れている。いろんなことに、吹っ切れる。
特に、以下の所が、今の状況から、心に響いた。少し長いが、引用する。
あ、別にそうと決まったとかでは決してないんすが。ま、そういうことも
考えとかないかんか、と。でもま、悩むことはぜんぜんいらんのや、と。
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「…それは、子孫を得なかった人の人生が、もしかすると、子孫を得なかった
 というだけで無意味になる可能性があるのかという問題です。それに対する
 答えはつぎのいずれかになるでしょう。
一、『人生、個人の生に意味がある』。
 この場合、子孫を得なくても、子孫を得て自分の生命を生物学的に『永遠化』
 するという方法に頼らなくても、人生にはかならず意味があるのです。ついでにいうと、
 子孫を得ることで自分の生命を生物学的に『永遠化』するなどということは、
 全くの幻想です。
二、『個人の生、ひとりひとりの人間の人生に意味がない』。
 この場合、ただ子孫を得て人生を『永遠なもの』にしようとしても、人生が意味の
 あるものになることはけっしてありえないでしょう。というのも、それ自体『無意味な』
 ものを永続化しても、それ自体無意味だからです。」
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ま、根が屁理屈で出来ている自分であるから。理屈で言われると、すとんと腑に落ちる
部分も多いんである。騙されたような気もするが、騙され得、とでも言おうか。
なんか、すごい心の霧が晴れたような気がした。
ま、気のせいなんかもしれんけど。気の持ちようで、人生どうとでも変わる、とは
これまでさんざん学んできたはずやったのに。
何度も耳にした以下の言葉、自分の「人生の言葉」と思い、ことあるごとに触れてきたが。
偉そうなこと言ってて、常にメンテしとかんと、忘れちまうんやねえ… いかんいかん。
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「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。
 つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
 人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
 私たちは問われている存在なのです。

 私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に
 答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。
 生きること自体、問われていることにほかなりません。」