さらば矢野。

さよなら記事ばかり書いている気がする今年であるが、またまた。
まずは、阪神タイガース矢野燿大捕手の引退。予想はされたが寂しい限りだ。
矢野輝弘」に慣れている者としては、「矢野燿大」は最後まで違和感があったなあ…
これ一瞬、「矢野燿・大捕手」に見えるがそうではない。蛇足ながら念のため。
いや冗談でなく、阪神の歴史に燦然と燿く大捕手であったのは間違いないだろう。
二回の優勝に導いた扇の要であったのはもちろんであるが。勝負強い打撃は印象深い。
特に2003年9月5日、横浜の抑え・ギャラードからバックスクリーン放った逆転サヨナラHR。
あの日はお世話になっている方のお身内の通夜式に参列し。車で家路に着いていたのだが。
かけっぱなしのAMラジオが敗色濃厚の試合を伝えていた。聞くともなしに耳に入っていた。
帰宅し、喪服を脱ぎながら無意識にテレビをつけると、丁度その場面であった。
驚く気持ち、喜ぶ気持ちと、今そんなん喜んだらいかんやろという自制とがないまぜとなった
なんともいえない心境になった。表情は冷静を装った。が、漆黒の闇に描かれる奇跡の白線。
それを美しいと思う気持ちだけは抑えられなかった。一生忘れられないだろう。
その思い出だけでも十分なのであるが、矢野捕手が残してくれたものは、さらに大きい。
「挫折の後にチャンスがあった」という、その言葉である。
大学は希望していた東京の大学には行けず、プロ野球入団も希望していた巨人ではなく。
入った中日では名捕手・中村という壁にぶちあたり。外野手までさせられ。
当時弱小の阪神へと追いやられ… と、ハタから見ればなるほど、挫折の連続である。
ただ、本人の述懐によると。東京の大学に行っていればプロにはなれなかっただろう、と。
中日を放出された時も、最初は惨めさを感じたが、結局それが阪神に来てプラスに転じた。
あとから考えれば、すべてのことがプラスにプラスにつながっているのだ、と。
近年の怪我、今年の城島加入、さらに二軍暮らしで晩年にはまた辛酸をなめたが。
それもまた、力に必ず変えてゆくのが、矢野という男なのだろう。今後に期待したい。
そうは言っても私自身、「悲劇の引退試合」に対する気持ちの整理はまだつかないでいるが…
いやそれもまた、矢野ならば…、と気持ちを今は抑えることとする。
*****
そこにきて「大沢親分」の訃報である。
これについても書かねばならないことが山積しているが。
もういい加減長くなったので、それはまたの機会に譲るとする。