涙のオリンピック。

バンクーバーオリンピックも、幕を下ろしてしまった。なんかぼーっとしている。
五輪等のイベントには毎度感じる、「晴れ晴れとした寂しさ」というやつである。
うちにもまた、静かで穏やかな昼餉が戻ってきた。しばしは余韻に浸るとしよう。
思い返せば、今回ほど「涙」を見たオリンピックもないのではないか、と思う。
上村愛子が、織田信成が、高橋大輔が、目黒萌絵が、鈴木明子が、浅田真央が。
それぞれに見せた涙は、それぞれに美しかった。涙の理由はそれぞれだろうけど。
皆に共通しているのは、過去の自分をがっちり受け止め、未来の自分に渡していく、
そのスイッチとしての涙であったのだろうなあ、とのこと。その姿勢に胸打たれる。
特に、上村選手、目黒選手、浅田選手の、前をキッと見つつボロボロ涙がこぼれる、
という様子が象徴的でもあり、心に残っている。あれらには神々しさすら感じた。
三人とも美人だから、ちうわけではないのだよ、決して。念のため。
高橋・鈴木選手の「歓喜の涙」もあるけれど。キム・ヨナの「金の涙」てのもあった。
しかし多くの選手は、満足のいく結果が得られなかった末の涙であったろう。
失敗はつらい、失敗は嫌なものだ。しかし失敗は許せない、失敗は悪だ、と決め付け、
それで終わらすのも、ある意味楽な姿勢なのかもしれない。それでは涙すら出ない。
失敗に対して寛容である、というのは決して自分に甘くすることではなく。
繰り返しになるが、今までの自分を直視し、これからの自分に繋げて行く姿勢なのかも。
系統は違うかも知れんけど、開会式での失敗を閉会式の「ネタ」にした、あれ。
涙とは関係ないけど、失敗に対する姿勢、ちう面では根底は同じかもしれない。
どんな失敗も必ず収束する最後には。受け止める姿勢を忘れなければ、と教えられた。
いや、涙と関係ないことはなかった。私は閉会式のそれ見てウルウルきたのである。
ただ、分析は大事だ。清水宏保氏が新聞コラムで痛切に語ったように。
五輪時だけメダルに一喜一憂し、あとの3年は知らぬ存ぜぬ、が日本の実情。
強化費と選手待遇は、韓国と雲泥の差。それ以前に、スポーツが消費対象でしかなく、
生活レベルで国民に浸透していない。スポーツ後進国ニッポンを直視すべきでは。
現状は、生活者としての人間という面で、実は日本が後進国の部類に属する、
ということを意味はしないか。それをいかに受け止め、いかに将来に渡していくか。
「銅を取って狂喜する。こんな馬鹿な国はないよ。」
とどこぞのお偉方がおっしゃったが。ここまで考えてそうおっしゃられているなら
尊敬もするものだが。果たして。
少し話がよれてしまった、失礼。
よれたついでに言ってしまうが。このお偉方、「涙」とは最も縁遠いところにいそうだ。
というのは偏見かな。