真田太平記、読了。

真田太平記(十二)雲の峰 (新潮文庫)

真田太平記(十二)雲の峰 (新潮文庫)

ついに読み終わった。全十二巻、3ヶ月余りかかってしまった。
時間はかかってしまったが、通勤時の何よりの楽しみだった。
それがもう終りだ、ということに一抹の寂しさはある。
次は何を楽しみにしようか、という期待感もある。
*****
もともと真田幸村が大好きで読み始めたわけで、幸村には
それはそれで心酔したのであるが、今まであまり知らなかった
人物との素晴らしい出会いもあった。ここでは特に3人を挙げたい。
幸村の兄にして、徳川方につき、明治維新後まで真田家を残した、
真田信幸(信之)が第一。真田の夢、真田の武名は父と弟に託し、
ひとり違う道を歩んだ。父と弟が「死して名を残す」のを選んだのに対し、
自分は「生きて生き抜く」ことを選んだ。昔の私なら、前者をのみ
称えたのだろうが、今ならば、後者の方がより苦労の多いことを察す。
信幸は信幸なりに、命がけで闘っていた、ともいえよう。
ちなみに信幸(信之)とあるのは、家康に気を遣い、父・昌幸の一字である
幸をさけるために、改名したことによる。なんとも細かい気の配りよう。
なんというか、「長男の鑑」のような人である。同じ長男のハシクレとして、
自分はどうだ、と問うと、あまりの違いにあきれ返ってしまう。
第二は、「後世の学者から『片桐且元こそ、まさに、本当の裏切り者である』」
と評される片桐且元である。大坂方を守るため、大坂方と関東との繋ぎに努めるも、
逆に内通の疑いをかけられ、逆ギレ。その後は関東方として前線で働くこととなる。
彼のことは、時代劇や別の小説で聞きかじっていて、とんでもない逆賊だ!と
憤っていたわけだが。今はなんだか、共感をおぼえるのである。池波も書くように、
「望む、望まぬにかかわらず、且元は、自分の器量と実力にふさわしくない、
重い荷を負いすぎてしまった。」わけであり、それに「『哀れ。。』の感をおぼえ」
ざるを得ない。再三書いたように、この手の筆者の主観には、辟易していたのだが、
この箇所では、大いに頷いてしまった。状況が人を作るのであり、行動だけで
人を判断してはならない。また、「自分の器量と実力にふさわしくない、重い荷」を
負うつらさは、よくよくわかる感じがするなあ、、、
最後に、風来坊・滝川三九郎である。織田信長重臣滝川一益の血を受け継ぎながら、
浪人同様の暮らしをしている三九郎。ひょんなことから、真田と縁を持つこととなる。
あまり書くとネタバレになるので控えるが、そのひょうひょうとした台詞・振る舞い、
実にいい。まさに「川に水がながれるように、おのれの環境に逆らうことなく、
それでいて、自分を捨てたことがない」といった生きざま。非常によい。
変なたとえだが、まさに「雲のジュウザ」である。最期の言葉は「束の間の一生に
しては、いささか長すぎたようじゃが、いまこそ三九郎一績、天地の塵となるぞよ」
だそうな。池波も書くように、「私も、このように死にたいもの」である。
*****
以上並べると、環境を作った人・環境に潰れた人・環境に乗った人、となろうか。
はたまた、模範・現実・理想、ということになろうか。どれもそれぞれにいい人生、
なのではないかな。真ん中はちと落ちるけど(そして自分に最も近いけど)、
まあ、それもそれで。
あと、小説に出てきた場所を旅したい。特に、長野県の別所温泉に行きたい。
幸村が男になった(意味の分からん人は、小説読んでちょ)この場所で、
湯につかりながら思索を巡らしたいものだ。あ、決してエッチな思索でなく。
あと関ヶ原も行きたい。松尾山に登って「小早川秀秋ごっこ」がしたいぞ。
信之の城があった群馬県・沼田も行きたい。東海道中山道を歩きたい。
甲賀へ行って忍者になりたい。と、欲望は尽きない。
あああ、休みが欲しい。ううう。