アテネオリンピック。日本人の活躍は素晴らしい。

長嶋ジャパン」は負けてしまったが。これは「長嶋ジャパン」にこだわったことが敗因としか言えない。
30年も前に引退したおじいさんの人気に頼らざるを得ない野球界。正直銅メダルがいいとこではなかったか。
それも取れるかまだわからんのだけれど。「長嶋ジャパン」を煽ったバカマスコミとそれに煽られた人々。
煽り厨に煽られ厨。踊る阿呆に見る阿呆。まあ,その全員の責任だろう。しかしおそらくは同じ輩が,
「責任はどうなる!」とかやるんだろうな,と諦観。まあいい。「感動をありがとう」とか綺麗事で
まとめられるよっかは,よっぽど。

おっと。話がヨレだした。どうも野球になるとアツくなってしまい。
何が書きたかったかというと,この冒頭の「日本人の活躍」ということに対する違和感である。
確かに田村は素晴らしく根性があった。野口はよく走った。北島はこっちこそキモチよかった。
でもそれを「日本人」と括ってしまっていいのか,ということである。声を大にして言いたい。

「メダルの数を数えるのは,いい加減やめませんか?」

金メダルへの道のりは,それぞれ,違うものである。その個人個人の努力はどうなるのだ。
あるいは団体競技個人競技を一緒くたにすることの愚。単純比較はできないはずである。
あるいは,団体競技ならば,チームの構成員の数だけメダルをもらっているはず。それを1にしていいのか。

幼い頃,オカンに殺意すら抱いた瞬間は,通信簿の「よくできる」の数を数えられた時である。
「うーん。今回は13個。前回より二個少なくなったわね。もう少し頑張ろうね」 
あほか。前回と今回はやってることも評価基準も全然違うはずである。自分は「頑張らなかった」わけでは
絶対にない。ただ,それが合計数に表れなかっただけの話である。それは全く否定されたわけだ。
その時の印象を,今思い出しているところだ。

合計数は基準としては極めて分かりやすいものである。しかしその裏に潜む危険性。
それをバカマスコミとそれに煽られる人々には気付いてもらいたい。
ついでにウイリアムスは帰ってきてからも同じ投球をするように。(脈絡なし)